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ほんがくじ|浄土宗佛性山

本覚寺
京都府 清水五条駅

御朱印について御朱印
あり

御朱印は特別公開時のみ。

限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
-

その他の巡礼の情報

洛陽四十八願地蔵尊第48番(泥付地蔵)
洛陽四十八願所阿弥陀如来第33番

本覚寺について

通常非公開。御朱印も特別拝観時のみです

八文字屋自笑のお墓


江戸中期の出版屋。境内に笠塔婆が立つ。

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2025年11月14日(金) 18時28分46秒
2949投稿

京都市下京区にあるお寺です。
五条通まで上がってきました。
こちら本覚寺には山門と中門がありました。
歴史のあるお寺らしく 立派な山門で 木組みが美しいです。
建てられてから年月が経つと 古い木の色(深いこげ茶)と白塗りの色が相まって美しいです。
古い建物はこういう部分に歴史の重みというか渋さを感じます。
好きですねぇこういう部分。
さて 山門をくぐると駐車スペースになっています。
お墓参りに来られた方のスペースかなと思いました。
そちらには鐘楼もあり こちらも古いものでした。
白塗りがあればもっとかっこいいのに。
奥には中門があります。
立ち入り禁止とありましたので こちらで合掌して写真を撮らせていただきました。
中門の先には本堂があります。
町中でこのようなお寺らしい建物を見ると嬉しくなります。
維持するのが大変だと思うのですが 民家のようなお寺だと悲しいです。
本堂の扁額もかっこいいですね。

ネット情報です。
山号を佛性山といい 浄土宗の寺で 開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(しおがま)の第(だい)のあったところで この辺を本塩竃町という。
寺伝によれば 初め西八条の遍照心院内に将軍源実朝(さねとも)の後室・坊門信子(ぼうもんのぶこ)が貞応元年(1222)に創建したもので 寺名は信子の法名本覚をとったものである。
その後 梅小路堀川に移転し 応仁の乱の荒廃のあと細川政元により高辻烏丸に再建せられ 末寺14を有する本山となった。
その後 後柏原天皇の勅願寺となったが 天正19年(1591)豊臣秀吉の命によってさらに今の地に移った。
境内墓地には八文字屋本の全盛期を築いた江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。

本覚寺(京都府)

山門は開いていました

本覚寺(京都府)

寺号の石柱

本覚寺(京都府)

もう一つ石柱が 八文字屋自笑の墓あり

本覚寺(京都府)

京都市の由緒書(駒札)

本覚寺(京都府)

鐘楼

本覚寺(京都府)

もう一つ山門がありました

本覚寺(京都府)

寺号標

本覚寺(京都府)

本堂

本覚寺(京都府)

本堂の扁額

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歴史

佛性山と号する浄土宗の寺で、團譽上人(王翁和尚)を開祖とする。
寺伝によれば、源実朝の後室・坊門信子が貞応元年(1222)に、西八条の遍照心院(大通院)内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺十四を有する本山となった。その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正十九年(1591)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデル)の河原院塩竈の第のあった所で、融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竈の浦(宮崎県)の景観を移し、毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。当地の住所、本塩竃町にその名残が見られる。
墓地には、江戸中期の八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑の墓がある。

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本覚寺の基本情報

住所

京都府京都市下京区本塩竈町558

行き方
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名称

本覚寺

読み方

ほんがくじ

参拝時間

通常非公開

御朱印あり

御朱印は特別公開時のみ。

限定御朱印なし
電話番号075-351-4780
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号

佛性山

院号

真如梅院

宗旨・宗派浄土宗
創建時代

1222年(貞応元年)

開山・開基

坊門信子/團譽上人(玉翁和尚)

ご由緒

佛性山と号する浄土宗の寺で、團譽上人(王翁和尚)を開祖とする。
寺伝によれば、源実朝の後室・坊門信子が貞応元年(1222)に、西八条の遍照心院(大通院)内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺十四を有する本山となった。その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正十九年(1591)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデル)の河原院塩竈の第のあった所で、融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竈の浦(宮崎県)の景観を移し、毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。当地の住所、本塩竃町にその名残が見られる。
墓地には、江戸中期の八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑の墓がある。

体験武将・サムライ有名人のお墓
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