かんだいじんじんじゃ
菅大臣神社京都府 四条(京都市営)駅
9:00~17:00
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方六角堂から少し歩いた所にあります。勿論こちらも菅原道真縁の神社です。

菅大臣神社 (菅大臣天満宮) 菅公聖蹟二十五拝
菅大臣神社 (菅大臣天満宮) 菅公聖蹟二十五拝
菅大臣神社 (菅大臣天満宮) 菅公聖蹟二十五拝
菅大臣神社 (菅大臣天満宮) 菅公聖蹟二十五拝
菅大臣神社 (菅大臣天満宮) 菅公聖蹟二十五拝
菅大臣神社 (菅大臣天満宮) 菅公聖蹟二十五拝

京都市下京区にある神社です。
こちらにお詣りするのは2回目だと思います。
菅原道真を祀る天満宮なのですが 名前が変わっていて 菅大臣神社となっています。
菅大臣天満宮とも呼ばれます。
主祭神は菅原道真公・尼神(あまがみ)・大己貴命です。
摂社は複数あり 柿本社(祭神:柿本人麻呂) 白太夫社(祭神:渡会春彦) 福部社(祭神:十川能福) 火御子社(祭神:火雷神) 老松社(祭神:島田忠臣)
末社は三玉稲荷社・春崎稲荷社があります。
この地の北に紅梅殿という神社があるのですが 両社はもとは一つの神社でした。
ネット情報です。
社地は今から約1000年前 菅原道真公の紅・白梅殿という邸宅や また菅公生誕の地と伝えられ 境内には産湯の井戸が保存されている。
仏光寺通を中心に南北二町 東西一町が当時の邸宅で 菅公が大宰府へ左遷に当り 「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 と詠んだ「飛梅の地」と伝えられる。
神社は道真公の薨去の後 間もなく創建されたが 度々兵火にさらされ 鎌倉期には南北両社に分かれ 南社にあたる当社を天神御所または白梅殿社として呼ばれるようになり 北社を紅梅殿社(現在の北菅大臣神社)と分離した。
応仁の乱後 慶長19年に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王(まんしゅいんのみや りょうじょほうしんのう)により再興され 今日に至っている。
この間 天明の大火 元治の兵乱で再度焼失するが 現本殿は 天保6年(1835年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を 明治2年に移築し その後幣殿を建立して いわゆる八棟造をなしている。
西側鳥居
社号の石柱
天満宮降誕之地
柱門
天満宮といえば牛
拝殿前の鳥居
由緒書
けっこう古いですね
鳥居の扁額
拝殿
顔が猿みたい
本殿は御簾の後ろ
境内社
境内社
境内社 三宝稲荷社・春﨑稲荷社
鳥居の扁額
覆屋の中
本殿祠
南側の鳥居
鳥居の扁額

京都市下京区にある神社です。
名前から分かる通り 菅原道真を祀る神社です。
散策している際 マップで見落としていたので 急に鳥居が現れたのでびっくりしました。
こんな大きな神社を見落とすなんてあるんやぁ~と。
菅公聖蹟二十五拝の第3番であり 洛陽天満宮二十五社順拝にも含まれています。
書置きでしたが 御朱印も拝受できました。
摂社が拝殿の隣に4社ありました。
名前が分からなかったのですが ウィキペディアに
柿本社(祭神:柿本人麻呂)
白太夫社(祭神:渡会春彦)
福部社(祭神:十川能福)
火御子社(祭神:火雷神)
老松社(祭神:島田忠臣)
の5社が載っていたので どちらかが複数でお祀りされているのでしょう。
由緒については
神社は道真公の薨去の後 間もなく創建されたが 度々 兵火にさらされ 鎌倉期には南北両社に分かれ 南社にあたる当社を天神御所または白梅殿社として呼ばれるようになり 北社を紅梅殿社(現在の北菅大臣神社)と分離した。
応仁の乱後 慶長19年に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王(まんしゅいんのみや りょうじょほうしんのう)により再興され 今日に至っている。
この間 天明の大火 元治の兵乱で再度焼失するが 現本殿は、天保6年(1835年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を 明治2年に移築し その後幣殿を建立して いわゆる八棟造をなしている。
とありました。
正面大鳥居
由緒書
二の鳥居
手水舎
牛は檻の中に
由緒書 3枚もあった
拝殿・本殿
拝殿内陣
南側の 二の鳥居
南側の一の鳥居
外に祠がありました
三玉稲荷社 / 春崎稲荷社
社寺は天神さま、すなわち平安朝初期、道真公の邸および「菅家廊下」と称する学問所のあったところであり、また道真公の誕生の地と伝えられ境内には産湯の井戸も保存されている。また道真公左遷に当り、「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれ、その後梅の一枝が一夜にして筑紫大宰府に飛んだという「飛梅発祥の地」でもある。
道真公は承和12年(845)6月25日に生まれ、貞観9年(867)23歳で菅家廊下に入り、父・是善卿の没後、元慶4年(880)36歳の時にこれを主宰された。その後延喜元年(901)57歳に大宰府へ左遷までの三十数年間を当地で過ごされ、延喜3年2月25日(903)筑紫でその生涯を閉じられた。
神社創立年代は不詳であるが、「平家物語」巻第一内裏炎上の中に「・・・安元三年(1177)四月廿八日・・・・・具平親王の千種殿、或いは北野天神の紅梅殿・・・・・・昔今の名所三十余ヶ処、公卿の家だにも十六ヶ処焼にけり・・・・・・」とあるのを見れば道真公の没後、間もなく神社が創立されたものと思われる。中世までは八町々天神とも呼ばれ、広大な神域をもっていたが、鎌倉時代より南北朝にかけて出来上がった「拾芥抄」によれば、この頃には菅大臣神社と北菅大臣神社とに二分され、当社を天神御所紅または白梅殿社、北を紅梅殿社と称している。
洛北の曼殊院是算上人は菅家にゆかりがあり、観応元年(1350)慈昭僧正の時より代々北野別当職に補せられ近郊の天満宮を管轄されていた。当神社は兼帯所になっていたが、京都の中心部にあるため度重なる兵火に罹り、応仁の乱後は一時社領断絶している。当神社古文書によると、慶長19年(1613)曼殊院宮良恕法親王により再興され、元和3年(1617)所司代は社地を決め、今日に至っている。
御祭神のうち大己貴命は当時日吉大社より勧請している。なお尼神は菅公の嫡女で、宇多天皇の女御に入り、天皇御出家ののちに尼となられ寛平の女御といわれた衍子の方である。道真公は右大臣であったため菅大臣(すがのおとど)と呼ばれたのであるが慶長再興時の祭文には「菅大臣尼神」の神号が見えている。その後寛永4年(1627)、寛延3年(1750)良啓法親王などにより社殿の拡張・復興がなされているが天明の大火(1788)、元治の兵乱(1864)に罹り社殿等ことごとく焼失する。
現在の本殿は文久3年度(1863)の下鴨神社式年遷宮の旧殿を明治2年(1869)に当地に移築したもので、典型的な流造の社殿として文化財価値が非常に高いものである。その後、幣殿を明治34年(1901)に改築し、本殿幣殿合わせていわゆる八棟造をなしている。神仏分離により菅大臣神社と称し、旧府社である。
摂社・新柿本社(いまかきのもとしゃ)は歌聖柿本人麻呂公を祀り、京洛歌人の信仰篤く元治の兵火後は孝明天皇の御下賜金にて再興されたものである。
| 名称 | 菅大臣神社 |
|---|---|
| 読み方 | かんだいじんじんじゃ |
| 通称 | 菅大臣天満宮、菅大臣社、天神御所、白梅殿 |
| 参拝時間 | 9:00~17:00 |
| 参拝にかかる時間 | 約10分 |
| 参拝料 | なし |
| トイレ | なし |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | なし |
| 電話番号 | 075-351-6389 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| 絵馬 | あり |
| 菅公聖蹟二十五拝 第3番 | 仏さま:菅原道真公、尼神、大己貴命 |
|---|
| ご祭神 | 菅原道真公 尼神(菅公嫡女・衍子の方) 大己貴命 |
|---|---|
| 本殿 | 三間社流造(銅巻柿葺) |
| ご由緒 | 社寺は天神さま、すなわち平安朝初期、道真公の邸および「菅家廊下」と称する学問所のあったところであり、また道真公の誕生の地と伝えられ境内には産湯の井戸も保存されている。また道真公左遷に当り、「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれ、その後梅の一枝が一夜にして筑紫大宰府に飛んだという「飛梅発祥の地」でもある。
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| 体験 | 絵馬御朱印お守り祭り花の名所札所・七福神巡り伝説 |
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