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くるくるきよせん
2023年09月28日(木)
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京都府久御山町にある神社です。
御祭神は活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと=垂仁天皇)と和気清麻呂(わけのきよまろ)です。
玉田神社の宮司様から教わったのでお参りしました。
御朱印は玉田神社で拝受できます。

『珠城神社縁起』によれば 活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)が崩御の後 その神霊を祀ったのが始まりとされています。
珠城神社の名前の起こりは 垂仁天皇の纏向(まきむく)の皇居を珠城宮と称したことにちなんで 珠城神社と名付けられたといいます。
もう1柱の和気清麻呂は 平安京の遷都に尽力した人物で 彼の死後 珠城神社に並べて神殿をつくり 御法善神としその後行賀によって護王寺という神宮寺が建立されました。
ところが 治承4年(1180)に兵火により 護王寺と共に焼失しました。
文治元年(1185)に源頼朝によって再建されたものの 再び天正元年(1573)の槙島合戦で焼失しました。
その後 祭神は佐山に鎮座する雙栗神社に合祀されていましたが 昭和42年に市田の氏子の熱い願いがかない 市田の里に復座することになったそうです。

お参りするにあたり 宮司様から 川沿いの車では行きにくい場所 だと教えていただいたので歩いて参拝しました。
もしかしたらそうとう小さな神社なのかと思っていたら なんのなんの 遊具もある公園を併設したような 立派な構えの神社でした。
本殿にあるおみくじは 玉田神社のそれと同じく番号を引くもので 大凶から半凶を含め 12のうち4つが凶がらみです。
「無料なので 納得がいくまで引くのもありです。」 と宮司様が教えてくださいました。

珠城神社(京都府)
珠城神社(京都府)
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私は2番「凶」でした

珠城神社(京都府)
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珠城神社の基本情報

住所京都府久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1
行き方
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名称珠城神社
読み方たまきじんじゃ
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳なし

詳細情報

ご祭神活目入彦五十狹芽命(いくめいりびこいさちのみこと:垂仁天皇)
和気清麻呂
創始者山代大筒城真若王(やましろおおつつきまわかのみこ)
ご由緒

 天正十三年(1585)の「市田玉城神社護法神社幷神宮寺巻」によれば、市田は垂仁天皇の宮城(珠城宮)のあった地で、天皇崩御の後その霊を山代大筒城真若王(開化天皇王子日子坐王の子)がこの地に祀ったのが当社のはじまりとし、珠城宮の所在したことにより、珠城神社と称したという。
また延暦十八年(799)和気清麻呂の死去にあたり、藤原葛野麿が勅使となって護法神社として、珠城神社に並べて神殿を造った。
 その後、僧行賀が神宮寺を建て護王寺(本尊薬師仏)としたという。当社ならびに護王寺は治承四年(1180)兵火により消失したが、文治元年(1185)源頼朝によって再建された。しかし天正元年(1573)、槇島の戦いで再び消失したという。江戸時代には珠城神社の祭神は雙栗神社に預けられていたようで、市田村は享保四年(1719)神輿を造営し神事に参画した記録が残っている。明治十二年(1879)正式に合祀され同十六年の「久世郡神社明細帳」では雙栗神社の祭神にその名がみえる。昭和四十二年(1967)十月、当社が再建され遷座した。

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