ゆぎょうじ(しょうじょうこうじ)|時宗 <時宗遊行寺総本山>|藤沢山
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楽しみ方時宗総本山 遊行寺(正式:清浄光寺)のお参りの記録一覧

遊行寺にお参り致しました。
駅から歩いて汗だくにて到着。本堂の扉が少し開いていて中に入れる的な案内が有りましたが汗だくでアレなので外からお参り致しました。
寺務所にて御朱印帳とご本尊様の御朱印を頂きました。

惣門

本堂

藤沢市西富にある時宗総本山 清浄光寺、通称「遊行寺」にお参りしました。
遊行とは、僧が諸国を巡り歩いて仏教の教えを説き人々を導くこと。宗祖である一遍上人は、「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札を配りながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏を行いました。
遊行寺は、正中2年(1325)廃寺になっていた極楽寺を再興して遊行四代・呑海上人が建立したのが始まりです。お上人さんが遊行の後に隠居なさる寺で、他のお寺の指導をする場所でもあることから本山になったといわれています。
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この日はもともと用事があって藤沢に来たのですが、メインはすっかり神社仏閣巡りに。さらに遊行寺は初めてだったのでお参りできるのをずっと楽しみにしてました。広い境内で写真映えするお庭や歴史の史跡があちこちに見られ、暑さを忘れて夢中で巡りました🎶そして何より時宗というか一遍上人、私けっこう好きかも😊またお参りしたいです。その時は御朱印帳をいただこうと思います。
(参照)
遊行寺ホームページ

『惣門』
明治の大火で焼失し、現在の惣門はその後に建てられ「黒門」と呼ばれ親しまれています。


『参道:四十八段』
阿弥陀様の四十八願に例えて四十八段という。いろは坂の愛称でも親しまれています。

『山門跡』
明治の大火で焼失。銅屋根の仁王門があり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額がありました。(額は現在本堂にあります)

地面には山門の痕跡がみられます。

『隅切三(すみきりさん)』
時宗の宗紋は「折敷に三文字紋」「隅切三」です。一遍上人の出身である伊予河野家の家紋に由来しています。

『境内案内図』


『手水舎』
明治100年記念として手水鉢が新設され、登録有形文化財になっています。


『一遍上人像』
空也上人と間違えられることが多いそうです。一遍上人は「わが先達なり」と空也上人の活動に影響を受け尊敬していたそうなので一遍上人的には嬉しいことなのかな?

『本堂』
木造としては東海道随一といわれる建造物。関東大震災にて倒壊して後、昭和12年再建。阿弥陀如来坐像をご本尊としています。


中に入ってお参りしました。川崎から来たという老夫婦に話しかけられちょっと立ち話😊

『地蔵堂』
内部は撮影禁止🈲
かつて境内にあった地蔵菩薩像を修復して安置するため平成26年9月に建てられたお堂。平成の大修理として解体したところ、胎内から「少病少悩」等の文字と享保6年の日付が発見され、江戸庶民の信仰が偲ばれる。

『戦没者慰霊名号碑』
南無阿弥陀仏とあります。大東亜戦争の犠牲者の冥福を祈願し昭和25年に建てられたものです。本堂左側にあります。

『鐘楼』
南北朝時代、延文元年(1356)に造られた鐘です。戦国時代、伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸との戦いで三浦方についた遊行寺はその戦場となり焼き払われました。
それ以後、徳川時代になるまでの約一世紀の間廃寺同様になり、住職である藤沢上人も住むことができませんでした。梵鐘も北条氏により小田原城に持ち去られました。慶長12年(1607)遊行寺の再建が完成するも、鐘はありませんでした。藤沢大鋸の中里理安という人が、小田原城主と談判を重ね、新しく鐘を造って交換するということで、費用を負担し新しく鐘を鋳造し古鐘を引き取り寺に寄進しました。
新しく造られた鐘は、小田原市荻窪の寿昌寺にあり銘文に「藤沢山清浄光寺」とのみ陰刻されているそうです。

現在も時報として使われていますので叩いてはいけません🙅♂️

『中里理安・理益の墓』(右側の2基)
小田原北条氏により持ち去られた梵鐘は、藤沢大鋸の住人、中里八郎左衛門理安により取り戻すことができたことから鐘の近くに埋葬されたといいます。理益は理安の子です。
『円意(えんに)居士墓』(左側)
江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父。浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進、さらに月供料15両、一遍上人語録の刊行にあたっての大施主として知られる。本宗の篤信に対して建てられた供養塔です。

『南部茂時の墓』
鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府滅亡の時、これに殉じた南部茂時とその家臣の墓になります。南部茂時が鎌倉で自害された時、家臣の佐藤彦五郎は主人の遺骸を遊行寺に運び入れて葬ってもらったといいます。なぜ鎌倉の寺ではなく遊行寺だったのかというと、新田軍を避ける必要があったこと、遊行寺が阿弥陀の住んでおられる霊場として知られているからと考えられています。

『百間廊下』
ここをくぐった先には境内社の宇賀神社があります。

『回向堂(えこうどう)』
回向とは死者の成仏を願って仏事供養をすること。


『太鼓楼』

猛暑の中頑張って咲いていました✨


『俣野大権現』
埼玉県所沢市にある長久寺によって寄進建立されたもの。ご祭神は俣野五郎景平で、呑海上人の兄であり当時の大檀越でもありました。

『敵味方供養塔』
国指定重要史跡。国内で最も古い怨親平等の碑。応永25年建立。
上杉禅秀の乱/応永23年(1416)
鎌倉公方・足利持氏打倒のため起こった戦乱。時衆僧たちは陣僧として遊行上人を中心に敵味方の区別なく救済し葬り供養したと伝わる。人だけではなく戦に関わった馬や牛、使った武器一切も一緒に供養されているのが特徴です。


道路挟んで向かいにある諏訪神社の神輿殿がなぜか遊行寺境内にありました。

『酒井忠重五輪塔』
徳川家康重臣・酒井家次の三男・酒井忠重は、出羽国村山郡白岩にて悪政を働き、その後、兄の忠勝がいる庄内藩にて藩政に介入し、酒井家乗っ取りを画策した人物として知られます。時代劇の勧善懲悪ものに登場する悪役のモデルになっている方でもあるそうです。
下総市川に蟄居中、何者かに襲われ死亡。六地蔵、万日堂の寄進者として遊行寺に葬ったと考えられています。この時の遊行上人が出羽国最上の出身であったことから、深い関係があったのではとも。

『酒井忠重逆修六地蔵』
酒井忠重が万治3年(1660)1月15日施主となり建立。翌年には万日堂(念仏堂)も寄進しています。逆修とは、生前に死後の自分のために仏事をして冥福を祈る事。


『堀田家三代の墓碑』
堀田正利夫妻、正盛夫妻の供養塔、及び正仲の墓。この墓碑を建立したのは、江戸前期から中期の大名で老中・大老だった、下総古河藩の初代藩主・堀田正俊です。
系譜は
正利(祖父)←正盛(父)←正俊(墓建立)→正仲(子)です。
祖父は浅草日輪寺、父は寛永寺山内の現龍院に墓所があり、なぜ遊行寺に新たに建立したのかは定かではないそうです。
ただ、正俊は高座郡に領地を持っていたこと、幕閣内において勢力を持ったこと、時宗の信徒であったことに由縁しているのではと考えられています。
正俊の長男・正仲だけはここに直接埋葬されています。この墓所だけ見落としました😭写真は夫妻らの供養塔です。

稲葉家の墓碑だけ見つけられなかった😢



『大銀杏』
境内中央にあり、樹齢700年(一説に500年)といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されています。

『中雀門』
安政六年(1859)の建造。境内の建物としてはもっとも古い。位の高い特別な客用で、皇室とのつながりをもつ菊の御紋や、徳川家の葵の御紋が見られる。市指定重要文化財。



寺務所

寺務所からの景色。御朱印と以前宝物館で開催されていた江の島展の刊行本「特別展江の島」を購入しました。遊行寺と江の島(江島神社)は関係が深いのです。

『御番方』
信徒や団体参拝者はこの御番方を通って、受付である近侍司寮(ごんじしりょう)へと向かいます。

『魚鱗甲貝供養塔』
放生池の前にあります。


『放生池』
元禄7年(1694)五代将軍・徳川綱吉の生類憐れみの令発布に伴い、江戸市中の金魚、銀魚が遊行寺のこの池へ放流されました。





『河野静雲の句碑』
高浜虚子門下の時宗僧である河野静雲の作。「生きていて 相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲」

『明治天皇御膳水』
明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになり、その時に使われた井戸です。

『遊行寺宝物館』
昭和52年に建てられ国の重要文化財を含む多くの寺宝を所蔵する。平成27年リニューアル。

『江の島一の鳥居袴石』
遊行寺橋際に建てられていた、江の島一の鳥居の袴石になります。明和6年(1769)頃、江戸麹町の秩父屋孫七の寄進により建てられました。後に朽ちて再度建てられましたが、明治の大川屋火事で焼失。その翌年に3代目の鳥居が建立されましたが、藤沢駅通り拡張工事に伴い取り除かれました。宝物館の入り口にあります。


宝物館も見学する予定でしたが・・・まさかの😱

見たかったな〜

これが購入した刊行本「江の島」です。素敵な紙袋に入れていただきました。
左側のお饅頭は、菓匠いもと 遊行寺境内店にて購入した「栗の里」😋栗が好きな方には特にオススメです。店員さんが、「この暑さだから(饅頭は)売れないかと思ってたけど意外と出るのよ〜!」とお話されてました。そして何故か檀家に間違われる私😂まぁ遊行寺も時宗も好きになったので檀家でもいいか(笑)

総門を出た先にある遊行寺橋。道幅の割に意外と交通量が多いです。

『江の島弁財天道標』
かつてこの付近に江の島一の鳥居がありました。

言わずと知れた時宗大本山❣️遊行寺さまへの参拝でございます。
正式名は「藤澤(沢)山無量光院清浄光寺」と称することから、この藤沢の名前の由来になったのではと察せられます。
この辺はワタクシのナワバリでねー、この大寺の前を毎日のように行ったり来たりしてるのに一向にお詣りしないフトドキ者❣️
商売繁盛を願うなんてモッテのほか☝️と疾しい気持ちをココロに秘めつつ、姿勢を正して山門をくぐりました。←嘘

御本堂
リッパです❣️大きいです❣️
さすが総本山👍
江ノ島は知ってても、それが藤沢市だとは誰も知らない😭
でもこの遊行寺さんをはじめ、日蓮上人龍ノ口法難の龍口寺さんや源義経ゆかりの白旗神社があったりと、けっこうイケてるお寺さんお宮さんがあるのヨ☝️
鎌倉ばっかりじゃなく藤沢にも来てネ😉

境内案内図
ゆ〜っくりまわると30分くらいはかかります。

本堂入口

「登霊臺」と書かれておる。

彫刻の細工も細やかですこと

この横に伸びてる柱…なんてぇの?
ゾウさんの鼻みたいにニュ〜っと曲がってるの、めずらしくない?

やや斜めから。
ワタクシ的にはこの角度から撮影するのが1番気に入っておる。

「ひぎり地蔵尊」の地蔵堂
関東大震災で倒壊したのを10年くらい前に再建したそうです。
いいお地蔵さんがいるけど、中は撮影🈲

絵馬の数々
「ニンチ症が進みませんように」…身にツマされるのう💨

これも立派な大銀杏
人と比べると、よくわかります。

重要文化財の鐘

庭園の放生池
「生類憐れみの令」で将軍綱吉がこの池に金魚を放て❗️と命じたんだって。
絶滅寸前だった藤沢メダカもいるでヨ☝️

紫陽花もそこそこありまして

裏にまわると、宇賀神社さんがあります。
ここお花いっぱいでステキよ💓
遊行寺さんに来たら、絶対ココ、お勧めです。
人いないし、ベンチもあるからゆっくりできる☺️

お社の向こうに菖蒲園と

銭洗い弁天様がございます。

カキツバタとアヤメと菖蒲の違いが分かりませぬ。が、菖蒲園だから菖蒲ということにしておく。

手前にニョキっと生えてるのナンダロ?アスパラガスじゃないヨネ。

鯉がチッスを交わしております❤️
人間も動物も仲良くしている姿はまことにヨイものです。戦争なんて愚かなもんはヤメロよ❗️バ◯ヤロー😤

あー、やっぱり見たままの色が出ないな💦
もっとね、濃いの。黒に近い紫。
めずらしかったんだけどな。

「遊行」って、なんかいい言葉でつね。お坊さんの修行のことだけど、ワタクシはお寺さんお宮さんにお参りするとき、ナントナクこの「遊行」がココロに浮かぶんです☺️
そうだ、今度からお参りに行くとき「遊行してきま〜す❣️」って言って出かけよう。(ただブラブラ遊びに行ってんじゃネーゾ🤣ミタイナ)

寺務所でございます。
若いお坊さんがいっぱいいます。

お手書きもいただけるようですが、なんか寺務所の中で工事してるみたいで忙しそうだったので、書き置きをいただいてきました。

御本尊さまの御朱印

ゴールデンスペシャル御朱印

宇賀神様の切り絵御朱印
最近いただいた切り絵の中では1番素敵💓

でね、藤沢の町ではこういうイベントがあるんデス。
いわゆる大盆踊り大会。
ワタクシは人混み苦手なので行ったことないんですが💦賑わうようでつよ。
遊行寺さん、開山700年なのネ。

遊行寺参拝
遊行寺って通称なんですね。藤澤山無量光院「清浄光寺」と最近知りました。
箱根駅伝をテレビで見ていると遊行寺の坂はお馴染みです。

境内マップ

手水舎

一遍上人

本堂へ

本堂

なでなで地蔵 テカテカです。

地蔵堂

中雀門

放生池へ





宇賀神社

宇賀神社




お寺の右手、東門から入って境内に駐車場があります。
いろは坂を南に下ると惣門がありますので、こちらから改めてお参りしました。
彫刻などは素晴らしいのですが、お堂は厳めしい感じのない良い雰囲気のお寺で、広々とした境内のお庭などもとても綺麗に整備されていました。このお寺はお勧めできます。
(御朱印第1373号)

直書き
左上に遊行上人のスタンプ


惣門


大銀杏


一遍上人像

本堂






中雀門
通れませんが、裏から真下にまで入れます。


寺務所など
御朱印や鯉の餌などはこちらです

放生池越しの本堂

鯉の餌を買いました

地蔵堂
写真禁止でしたが立派なお地蔵さまでした。

本堂左手前にある南無阿弥陀仏の石碑

今回は藤沢・平塚へ
まずは時宗の総本山遊行寺(清浄光寺)にて御朱印を頂きました。
惣門から入り、大きな黒の冠木門で遊行寺の黒門と呼ばれています。
惣門の脇にある青銅製灯籠は天保13年の建立です。
参道(いろは坂)は阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれています。
いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれています。
大銀杏は樹齢700年といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されています。
地蔵堂は大正12年の関東大震災で地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきましたが
東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。
時宗の宗祖の一遍上人の像がありました。
本堂は木造銅葺、木造としては東海道随一といわれています。
関東大震災で倒壊したのち、昭和10年上棟、同12年に落成しました。
外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」を掲げています。
ご本尊は阿弥陀如来です。
鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。
朱雀門は安政六年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古い建造物です。
四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。大棟に皇室との深いつながりを示す菊の御紋、
屋根の下に徳川家の家紋である葵の御紋が刻まれています。建立者は紀伊大納言徳川治宝といわれています。
1880年の藤沢宿大火の被害は免れましたが、1923年の関東大震災では倒壊しました。その後、そのままの形で再建され、現在にその姿をとどめています。
境内には須賀神社が鎮座し
ご祭神は宇賀弁財天です。徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。
歴代上人御廟所は歴代の上人のお墓になります。
御番方は信徒・団参の方々が入る入口です。
明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟されました。
関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊しましたが、
すぐに倒壊当時の古材をもって再建されました。
なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われています。
俣野大権現社は埼玉県長久寺によって寄進建立されたもので、ご祭神は俣野五郎景平です。
開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。
貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。
酒井忠重逆修六地蔵は藤沢山の住持十七世他阿慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立されました。
施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で逆修のために建立されたとされます。
#清浄光寺
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#藤沢市
#神奈川県
#御朱印

御朱印

挟み紙

由緒書

惣門

寺号標

青銅製灯籠

参道

大銀杏

境内案内図

手水舎

地蔵堂

一遍上人の像

本堂

本堂の扁額

鐘楼

朱雀門

太鼓堂

須賀神社 鳥居

須賀神社拝殿

回向堂

歴代上人御廟所

方丈池

御番方

俣野大権現社

酒井忠重逆修六地蔵

24.12.08。先の昼の部より続きです。
遊行寺② 夜の部
(ライトアップは12月22日迄)
















本堂前より振り返り
遠方に藤沢市街地が望めます。


大銀杏の上に月が微かに見えます。

24.12.08。先の諏訪神社より徒歩3分。藤沢市西冨にある時宗総本山。
遊行寺① 昼の部
【遊行寺と藤沢】
当山の正式名称は、藤沢山無量光院清浄光寺です。遊行四代呑海上人以来、遊行上人が住まわれるお寺として『遊行寺』の名で親しまれています。「遊行」とは、僧侶が布教しながら各地を巡り歩くことです。
宗祖一遍上人は遊行中、念仏札を配る「賦算」を通して人々に結縁を勧め、「踊り念仏」を通して人々と念仏の歓びを分かち合われました。
藤沢は遊行寺の創建時より門前町として栄え、行政・経済・文化などにおいて遊行寺と深い結びつきを持ちながら、旧東海道の「藤沢宿」、そして今日の「藤沢市」へと発展していきました。
〜御朱印挟み紙より〜
ライトアップに(12月7日〜22日)合わせて参詣。境内の樹齢700年とも伝わるイチョウの大木と東海道随一といわれる木造本堂のライトアップが見応え充分でありしました。写真が多いので昼の部と夜の部とを分けて投稿させて頂きます。

師走 限定御朱印

惣門(総門)
国登録有形文化財。

石垣・築地塀
国登録有形文化財。

参道(いろは坂)


山門跡
明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門がありました。

大銀杏
樹齢700年(一説には500年)。

本堂遠景

手水舎
国登録有形文化財。

手水鉢
明治100年記念として新設。

一遍上人像


本堂
国登録有形文化財。

内陣





地蔵堂
内部は撮影禁止です。


なでなで地蔵

俣野大権現
祭神は俣野五郎影平であり、呑海上人の兄であり、当時の大壇越でありました。


乙女椿

↓

六地蔵と五輪塔


大悲水子地蔵菩薩像
昭和56年(1981)建立。


鐘楼
国登録有形文化財。

↓

梵鐘

百間廊下
国登録有形文化財。

三宝の松

中雀門
藤沢市指定重要文化財。
安政6年(1859)に建立された、境内で最も古い建造物です。

黒門
御番方や僧堂(寺務所)への入り口。
※黒門とは黒衣を着る宗門、つまり仏門と言う意味のようです。

御番方
国登録有形文化財。
信徒・団参の方々の入り口。


寺務所・僧堂
直書きの御朱印を拝受しました。

黒門前よりの大銀杏




正式名:藤沢山無量光院清浄光寺
通称:遊行寺
神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。
開山は俣野の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代他阿呑海上人で、兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建された。
創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇は度々焼失し、その都度復興してきた。
永正10年(1513)の兵火により全山を失った際は、当時、遊行21代他阿知蓮上人が滞在されていた駿河長善寺に本尊を移し、その後ようやく藤沢に再興されたのは慶長12年(1607)のことであった。
そして寛永8年(1631)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺は『時宗藤沢遊行末寺帳』を提出し、幕府から時宗総本山と認められた。
現在の遊行寺は東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場として、また市民の憩いの場として今日に至っている。


















































本日の<ぼっくり>探しの旅
とある情報筋より こちらにも その ぼっくりちゃんが有るということでお伺いしてみました^^
年始早々 箱根の駅伝戦士たちがこの前を走り抜けていくことで名高い 遊行寺さんです^^
急坂の途中にあり 広い境内に多くの見どころを有するお寺様
園庭にはちょっとした茶屋まで有する とてもいい感じのお寺です^^


本堂



鐘堂

今日のお目当ては こやつ^^ 手のひらサ~~イズの巨大松ぼっくり^^
そこらの松林に転がってる 松ぼっくりとは 訳が違う^^;
相当なレアもので そうそう転がってないのであ~~~る^^;;;
急な突風でも吹いて落ちてこないかな~~~と ぼんやり眺めていたものの・・・・・


お池の鯉さんと 遊んできました^^

こちらも巨大なイチョウの樹^^

そんなイチョウがデザインされたオリジナル御朱印帳^^

月替わり御朱印^^

時宗の宗祖・一遍上人は特定の寺を持たず全国各地を念仏踊りをしながら廻った方だ。その一遍上人の教えを受け継ぎ、総本山として建てられたのが、ここ清浄光寺だ。通称は遊行寺と呼ばれている。
さすがに大本山だけあり、広かった。で、目的である御朱印帳はどこで買えるのお?と迷ってしまった。本堂入口に書置き御朱印はあるのだが、御朱印帳はどこで?と案内板をやっと見つけると、寺務所の方に住職初め、修行僧の方ら皆さん、おられるようだ。
実は、14年前に息子が中学受験で一度同じ敷地内にある付属中高に来たのだが、当時は全くお寺に感心がなく。ごめんなさい。学校しか見てませんでした。
ただ、当時、付属中高の校長もされておられた遊行寺の他阿真円[たあ・しんえん]上人は覚えている。この方は亡くなられるまで藤沢市では有名なかたであった。小田原や鎌倉など、時宗のお寺に行ったことがあるが、遊行寺の付属中高出身者も多く、この上人は本当に評判が良かった。菩提寺でない方、違う宗教の方にも評判が良い。それって素晴らしいことだと思う。
同じ敷地内なのだろうか。山門の中に幾つか時宗寺院があった。いわゆる末寺というものだと思うのだが、何となく本山末寺関係をこの日理解したような気がした。本山は修行の場。お墓、檀家を持たない。修行僧らが忙しく働いている。気軽に入る事が出来、御朱印も頼みやすい。末寺はお墓、檀家を持つ。だから、お盆、彼岸など忙しい。それから現代では「家族の住む住宅」感覚もあり、家族優先。つまり、檀家でない場合は、本堂に上がらせてもらい、御本尊を拝むとか止めた方がよい。ただ境内にあるお地蔵様などに手を合わせるにした方が良いのだと理解したのだった。












道路を挟んだ向かいに諏訪神社があるのだが、遊行寺の敷地内に諏訪神社の神楽殿がある。




一遍上人の像が目立つ場所にある。



















敷地内に宇賀神社がある。

素敵な御朱印帳だ。


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