はしりみずじんじゃ
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22.07.20 横須賀「走水神社」参拝 _ 横須賀市走水

01-1)「走水神社(はしりみずじんじゃ)」社頭。 一の鳥居。
公式HP: http://www12.plala.or.jp/hasirimizujinjya/index.html
_ 横須賀市走水2-12-15
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01-2) 解説ボード ” 市制施行70周年記念 横須賀風物百選 走水神社 ”
書き起こし
『 市制施行七十周年記念。
橫須賀風物百選 走水神社
走水の地名は、
すでに古事記(七一二年)や日本書紀(七二〇年)の中に表れています。
大和朝廷時代には、
上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、
この地方に古東海道が通じておりました。
走水神社の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と
その后 弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱です。
神社の創建された年代については、
享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。
伝説では、景行天皇の即位四十年(一一〇年)、
東夷 征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、
村民 に「冠」を賜りましたので、
冠を石櫃(いしびっ)に納めて、その上に社殿を建て、
日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。
日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。
海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。
弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、
その地が軍用地に買 収されたため、
明治四十二年、この神社に祭られました。
明治四十三年六月、弟橘媛命の歌碑が、
東郷平八郎、乃木希典(のぎまれすけ)など七名士 により、
社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、
弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、
また、左側にあ る「包丁塚」は、
走水の住人大伴黒主(おおとものくろぬし)が、
日本武尊に料理を献じて喜ばれた との古事により、
包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八 年に建てられたものです。 』
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21.06.22。京浜急行線「馬堀海岸駅」より観音崎行きバスで10分、「走水神社」下車、徒歩2分。横須賀市走水(はしりみず)の漁港近くに鎮座。
御祭神:日本武尊、弟橘媛命。
創建は不詳。伝説では景行天皇の即位40年(110年)、東夷征伐の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜り、これを石櫃に納めて、その上に社殿を建て、尊を祭ったことに始まると伝えています。武尊が渡海の際、海上が荒れ、舟が沈みそうになり、海神の怒りと考えた、弟橘媛命は尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。
(後略)
〜横須賀市観光情報より〜
上記の伝説等から、女子力アップのパワースポットとして知られている。本日は走水〜鴨居〜浦賀と一方の三浦半島の突端(自分の故郷でもある地域)を巡ります。
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日曜日なのに仕事になってしまい、はァ…😓
いや、待て。場所はあまり行かない横須賀だしぃ、このところ忙しくてお参り行けてないしぃ、合間を見てそっち方面の神社に行けるじゃん!
と、いうことで、やって来ました走水神社⛩😊

海は東京湾。
観音崎灯台の近くです。

紫の幟を目印に道路を曲がると入口。
コチラを左に折れ、案内の通りに進むと駐車場です。
場内はけっこう広いですが、道が狭く、生活道路なので通行に気をつけましょう。


走水神社
以下コピペ
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由 緒
走水神社は、12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱をお祀りしております。
景行天皇即位40年、東国の騒動を静めるため日本武尊にその鎮定を命じました。
勅命を奉じて日本武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より神宝の雨叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)と火打袋を授けられ、東国に東征の軍を起こされました。途中、静岡(焼津)において賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが雨叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したといわれ、これよりこの神宝を草薙之剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっております。
日本武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。
ここに、御所(御座所)を建てました。(現在の御所が崎といわれています)
走水の地において、軍船等の準備をし上総に出発するときに村人が日本武尊と弟橘媛命を非常に慕いますので、日本武尊は自分の冠を村人に与えました。村人はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てました。(走水神社の創建です)
日本武尊は、上総国へ軍船でいっきに渡ろうと船出されましたが、突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進むことも戻ることもできず転覆するかの危機に、日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と御歌を残し、海中に身を投じられました。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来ました。以来、水走る走水と言われております。
上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、碓氷峠から遥か東方に光る走水の海の輝きを望み、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」と嘆き呼びかけられたという、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったといわれております。
奈良時代の初期に編纂された『古事記』『日本書紀』にも記されております。
また、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。
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