白山神社のお参りの記録一覧
岩手県 世界遺産 平泉内に在る神社、紅葉時期に訪れるのが良いと思います、以前にも訪れましたが、何の神さまかも知らなかったので引用し調べて見ました、白山神社の祭神は、伊邪那岐尊(イザナギノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)で、慈覚大師が加賀の一の宮(現在の石川県の白山本宮)より分霊されて一関磐井川の上流(現在の一関市本寺)にあったお社を平泉に遷座し奉り勧請したのがはじまりと言われてます。以後北方を鎮護する神として、また中尊寺が建立されてからは中尊寺の鎮守としても信仰されてきました。
白山神社そのものは白山信仰に関係があり、北陸の霊峰白山で修行をした修験者達によって全国に広められたと言われてるそうです、歴史的建造物、仏閣、神社巡り、パワースポット、世界遺産平泉観光、癒し処、参拝、散策、散歩絶景、景色撮影、御朱印集め等好きな方訪れて見て下さい。社務所に各種御守り、お札、御朱印販売してます、
白山神社の祭神は、伊邪那岐尊(イザナギノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)で、慈覚大師が加賀の一の宮(現在の石川県の白山本宮)より分霊されて一関磐井川の上流(現在の一関市本寺)にあったお社を平泉に遷座し奉り勧請したのがはじまりと言われてます。以後北方を鎮護する神として、また中尊寺が建立されてからは中尊寺の鎮守としても信仰されてきました。境内にある能舞台と鳥居は、嘉永6年(1853年)旧伊達藩主伊達慶邦公によって建立寄進されたもので、能舞台は橋掛、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本では唯一とされ、国の重要文化財に指定されています。
前日伺った時は15時過ぎで社務所閉まっていたので朝からもう一度参拝してきました。
御由緒
白山神社は、仁明天皇の御代の嘉祥二年慈覚大師が一関磐井川の上流(現在の一関本寺)に加賀の一の宮(現在の石川県の白山本宮)より分霊されてあったのをこの関山に遷座し奉り勧請されたと言われております。勧請と同時に白山権現と号せられ慈覚大師自ら十一面観音を本尊として、その後配仏として季衡(清衡の子)の寺仏運慶作の正観音と源義経の持仏毘沙門天が寄進安置されていましたが、残念ながら嘉永二年正月八日の火災で焼失いたしました。仮宮の拝殿(現在の能楽殿)と鳥居は、嘉永六旧伊達藩主伊達慶邦公によって建立寄進されたものであります。能楽殿は橋掛・楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一とされ、平成十五年五月・国の重要文化財に指定されました。能舞台の松と竹は、昭和二十二年能画の大家で今は亡き松野奏風先生の絵であります。能舞は、天正十九年、時の関白豊臣秀次と伊達政宗両公が社参の折に観覧に供し以来これを続行しています。明治九年には、明治天皇が御東巡の折に畏しこくも当社に御臨幸あらせられ、古式(田楽・関口・祝詞・若女・老女)能舞(竹生島)を天覧あらせられました。
なお社頭には、康元中の人で南宗坊という僧が手植えの古杉(姥杉)があって、木の香が伽羅のようであったため、柱香として後水尾天皇に奉献いたしましたところ、この名前を千歳となづけられ御製を賜りました。
白山神社は中尊寺鎮守のひとつで、境内の北方にある。
白山神社の神事能は、中尊寺一山の僧侶が伝習して行われた。
現存する白山神社能舞台は、嘉永2(1849)年の消失後、同6(1853)年に竣工したものである。
舞台及び楽屋は東西に長い入母屋造、茅葺で、西半を舞台、東半を楽屋とする。
この北面につく橋掛りは両下造、鉄板葺の建物で、北東に延び、社殿側にある鏡の間に接続する。
鏡の間は、西面は入母屋造、東面は寄棟造の茅葺である。
白山神社能舞台は、正統的かつ本格的な規模と形式の舞台をはじめ、橋掛、鏡の間、楽屋からなり、完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一と言え、高い価値がある。
15時過ぎでしたが社務所閉まっていて御朱印はもらえませんでした。
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