常陸第三宮 吉田神社のお参りの記録一覧
水戸東照宮のあとは、こちら常陸国三宮の吉田神社を参拝⛩️
本日最後の参拝で16:30頃に到着。
すでに日が暮れてきて、天気も曇りだったので一気に日没したような状態。
あたりは暗くなってきてましたが、その代わり参道沿いの灯籠に明かりがついてノスタルジックな雰囲気に😄
御朱印の種類が豊富で迷いましたが、御祭神のヤマトタケルノミコトのイラストが描かれたものを頂きました。
私の大好きな小説「神様の御用人」シリーズに登場する京都の吉田神社と同名なので何か繋がりがあるのかと思いましたが、特に関係はなさそう。
今回の日帰り巡拝旅行はこれでお終い!
出だしでつまづきましたが、諦めずに再スタートしたおかげで素敵な御朱印や茨城の魅力を満喫した旅行になりました♪
今回の日帰り旅行では
参拝数10社
総走行距離506km(財布を忘れてUターンした分も含めれば約650km)
総歩数16400歩
でした🚶
境内入り口
日没直前であたりは暗く。
社号標
参道
両側の灯籠がに、灯りがともって良い雰囲気に💡
随神門
拝殿
斜めから
扁額
御朱印と
水戸にある吉田神社に行ってきました!
日本武尊をお祀りする、交通安全と縁結びの神社です☺️
境内は緑に囲まれていて、広くはないものの見応えたっぷりでした。
御朱印は通常のものをいただきました。
他にオートバイ神社御朱印や、御神木の枝垂れ桜御朱印、日本武尊御朱印というのもありました!
かわいい🥰
大きい御神木🌳
笹の葉を利き手じゃない手で結ぶと良縁に恵まれるという縁結びの笹。
しっかり結んできました!🎗⸝⸝
水戸まで電車で行き、レンタサイクルで周辺を回ります。水戸に着いたのは、8時半ごろ。
神社が閉まるのは早いので、いくつ回れるでしょうか。
まず吉田神社に向かいましたが、途中の坂で、立ちこぎするも健闘虚しく自転車を引いて徒歩で上りました。
兼務神社がいくつかあり、御朱印もそれぞれありましたが、参拝できるかどうかわからないところのものまで頂くのは気が引け、吉田神社と境内の三角山、吉田天満宮の分だけを頂きました。
吉田神社の御朱印
三角山の御朱印
鳥居
とてつもなく大きな木です…
本殿
水戸光國公が手植えしたらしい笹。
片手で結ぶと良いらしく、手が届きそうなところはほとんど結ばれていて、結ばれていない葉を探すのが大変でした…
境内の末社ですが、ここのお賽銭箱にお賽銭を入れて手を合わせた瞬間に向かって右手から木戸を開けたような音がして、同行者にもはっきり聞こえたらしく同時に右を見ましたが…右には建物はなく林があるだけでした…あれはなんだったのでしょう。神様が扉を開けて出て来られたんでしょうかね…
参拝を終えて出ようとしたときに、バイクの音がして、おじさまたちが大勢やってきました。
鳥居。この馬ってバイクのことなんでしょうね。
確かに馬と同じ乗り方です(笑)
このエンジンがご本尊らしいです。
おじさまたちのバイクたち。こういう余生を過ごすのも素敵ですねー 皆さん楽しそうでした!
三角山の鳥居。お賽銭箱のとなりに、白い綺麗な石がおいてあり、頂きました。願い事がかなったらお返しに来るのだそうです。
神社左手から入って境内に駐車出来ます。
三之宮とのことですが、沢山の方々がお詣りに来られてました。
(御朱印第876号)
直書き
御神木がとても素晴らしい
拝殿
鈴がにぎやかでいい感じです
本殿
常陸第三宮 吉田神社にお参りしました😊創建は顕宗天皇(485)と仁賢天皇(498)の御代に遡り、日本武尊を祀る神社としては関東最古の社だそうです✨参道の立派な御神木にパワーをいただきました😊💓
一の鳥居✨
御神木✨
パワースポット✨
参道✨
二の鳥居✨
三の鳥居✨
随神門✨
手水舎✨
境内✨
拝殿✨
利き手と反対の手で結ぶと願いが叶うという縁結びの笹🌿
末社(白虎)✨
境内のしだれ桜🌸
末社(玄武)✨
朝日三角山✨
吉田天満宮✨
ありがとうございました😊
直書き御朱印✨
茨城県十二社詣の一社、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、主祭神は日本武尊、社格等は式内社(名神大)常陸国三宮、旧県社、創建は不詳、本殿の様式は神明造、例祭は10月13日(秋季例大祭)吉田神社所蔵の古文書によれば、正安4年(1301年)に鎮座以来800余年を経過した旨の記載が見える、1985年10月19、20日開催の秋季例大祭は創建1500年祭として実施した、休憩場所とされる地は、現在も境内一角に伝えられている。
この伝承に対して、『常陸国風土記』では那賀郡における日本武尊の説話が見えないことから、日本武尊への結びつけを平安時代初期頃と推測する説もある、国史での初見は承和13年(846年)で、従五位下勲八等の神階にある「吉田神」が名神に列したと記されている、その後、神階は天安元年(857年)に従四位下勲八等、貞観5年(863年)に従四位上勲八等、元慶2年(878年)に正四位下勲八等に昇った、
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、常陸国那賀郡に「吉田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している、また、吉田社は常陸国において鹿島神宮(一宮)、静神社(二宮)に次ぎ三宮に位置づけられ、鹿島神宮に次いで式年造営も行われたという、このように常陸国で第3位、那賀郡(那珂郡)で第1位に位置づけられたのは、武神である祭神の日本武尊と蝦夷征伐との関係や、水戸西方で勢力を張っていた那賀郡領の宇治部氏の衰退との関係が背景にあるといわれる、中世には吉田社の神郡として那賀郡から「吉田郡」が分立したが、吉田社の社領は158町で吉田郡の半分に及んだ、この社領は以後荘園としての性格を強め、「吉田庄」とも称された、また当社は薬王院を神宮寺とし、神社には6間と3間の回廊や鳥居・玉垣があり、多くの付属建物や末社が存在したといい、神階も正一位に達したと伝える、その後は薬王院が天台宗の中心地として隆盛するとともに争論が増え、神威は衰退した、
江戸時代には水戸藩から篤い崇敬を受け、特に徳川光圀は寛文6年(1666年)に本殿・拝殿ほか多くの社殿を修造し、徳川斉昭は天保15年(1844年)に『大日本史』と社領100石を寄進した。
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