やくせんじ|時宗
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楽しみ方薬仙寺のお参りの記録一覧

今日も朝から灼熱の一日でしたが、兵庫区の兵庫工業高校に所要で、帰りに付近を散策して薬仙寺にお邪魔しました。敷地面積の広いお寺様でした^ ^
☆ 平安末期、平清盛が福原遷都の際、
御白河法皇を幽閉した「萱の御所」が、
この地にあったと伝わる
☆ s15 木造薬師如来座像が国定重文!
H14 木造十一面観世音菩薩立像は神戸市
指定文化財!

御住職が不在の為、書置きを頂きました


大施餓鬼會日本最初之道場塔

神戸大空襲慰霊碑

後醍醐天皇御薬水

拝殿

萱の御所跡石碑


昨日寝落ちしてしまったので 昨日の分もあわせて。
神戸市兵庫区にある時宗のお寺です。
先ほど投稿させていただいた普照院の隣にあります。
こちらが本山になるようです。
境内がけっこう広くて本堂も立派な建物です。
これは歴史のある寺院だろうなぁと思っていたら。。。萱の御所という文字を見つけました。
御所??天皇がいた???
よくよく見ると 平清盛が後白河法皇を幽閉した地だということでした。
幽閉した建物だからとりあえず御所だそうですが 粗末な建物だったそうです。
後白河法皇もかわいそうに。
また 三田にある花山院に隠棲された華山法皇もこちらのお寺に滞留されていたそうで 歌碑が残されています。(字は読めません)
また 後醍醐天皇が兵庫で病床に伏された際 住職がこちらの霊水を献上されたところ たちまちのうちに御快癒されたと伝わる井戸もあります。
お三人の法皇に縁のあるお寺ということで 立派なのも頷けます。
一遍上人が兵庫の地で没されたことをご存じの方も多いと思いますが そのため兵庫津では踊り念仏が盛んだったそうです。
また福原西国霊場巡りも江戸時代から盛んになり 御詠歌と踊念仏をミックスした娯楽が生まれたそうです。
ちょっとイメージできないのですが その連名の石碑が残っています。
ネット情報です。
山号は医王山 宗派は時宗 ご本尊は薬師如来 開基は(伝)行基 札所は福原西国三十三観音霊場第1番と兵庫七福神めぐりです。
寺伝によれば 千僧寺塔頭の一つとも伝え 天平年中(729年~748年)行基の開山。
天平18年(746年)に日本で最初の施餓鬼会を行ったと伝える。
『摂津名所図会』に「往古の本尊は薬師仏にして 天台宗なり」とあり 延文年中(1356年~1360年)に京都の霊山国阿(時宗8世)が中興し 時宗に改宗。
福聚庵・普照院・荷松院・慈眼院・大光院・世尊院・全真庵の坊舎七字のうち 現在は普照院のみが残っている。
現在の本堂は第二次大戦後(昭和48年)に再建されたもの。

山門はありません

寺号の石柱

福原西国霊場の1番です

萱の御所?

法皇を幽閉したから御所ですか

由緒書


萱の御所跡碑

花山法皇歌碑 読めない

詠歌踊念連名

卍の岩

空襲犠牲者慰霊碑だった

寺務所

本堂

扁額

薬師出現古跡涌泉

説明

戦災・震災モニュメント

説明

納骨堂

裏手は運河


神戸市兵庫区に在る医王山 薬仙寺を参拝しました。
時宗で、本尊は秘仏・薬師如来。
この本尊・薬師如来坐像は重文で、年に8/8、8/9の2日のみ開帳されます。開帳日に合わせて今回参拝した次第です。
また、本尊横に祀られる十一面観音立像は県指定文化財で、同じ日に開帳されます。
746年に行基によって開創と伝わります。当初は法相宗であったが、9世紀に天台宗に、14世紀に時宗に改宗。1945年の神戸大空襲により灰塵に帰したが復興、記憶に新しい1995年の阪神淡路大震災により倒壊したが2000年に復興した。
海近くで道路1本挟んで運河があります。境内南側にグラウンドの様な広い駐車場がありましたが入口が閉まっていましたので境内に停めさせて頂きました。境内には本堂、寺務所、檀徒会館、位牌堂がありました。(全て鉄筋コンクリート造り)
回向?施餓鬼会?の檀家さんばかり。本堂入口で受付されているご住職の奥様?から「どうぞゆっくり拝観されて下さい。仏像の前まで行って構いませんから。」と有難いお言葉。見慣れぬ奴で、塔婆の申込みもしないから一般参拝者とわかるのでしょうね。
それと、立てられている幟は「観音さまのおまつり 四万六千日法会」と「長谷試十一面観世音菩薩」の2種、てっきり本尊・薬師如来の縁日と思っていましたが十一面観音の縁日でした。(御朱印も「長谷試大悲殿」と書かれている。)
御朱印帳を渡して御朱印をお願いして本堂内へ。須弥壇の中央に本尊・薬師如来坐像、左側に十一面観音立像、右側に阿弥陀如来立像(近世の作)が祀られています。
薬師如来坐像は、高さ約89cm、一木造、どっしりとして包容力のあるふくよかな体躯、螺髪も1つ1つ螺旋に彫られています。平安時代後期の作。元々は阿弥陀如来だったが、何らかの理由で薬師如来に作り替えられたと伝わります。時宗の本尊は基本阿弥陀如来だから作り替える必要はないのですが・・・。
十一面観音立像は、高さ約86cm、寄木造。すらりとして気品があり、やや丸顔で若々しい。右手に錫杖を持つ長谷寺式。墨書銘により鎌倉時代の1278年の作。奈良県の長谷寺の十一面観音像を制作する時の試し彫りの像であると伝わります。(だから「長谷試」でしょうかね。)
拝観後にお願いしておいた御朱印を頂きました。塔婆に揮毫されているお忙しい最中にお手数お掛けしました。

御朱印


萱の御所跡碑
平清盛が後白河法皇を幽閉した建物跡の碑(運河拡張工事により水没するため碑を移設した)

後醍醐天皇御薬水/薬師出現古跡涌水
1333年に後醍醐天皇が流された隠岐から戻る際に兵庫で病気になり、この霊水を献納したら忽ち快復したと伝わる涌水

本堂

須弥壇

本尊・薬師如来坐像(重文)


十一面観音立像(県指定文化財)


阿弥陀如来立像


746年僧・行基によって開かれたと伝わる。
1207年法然上人が讃岐へ下る時に当地へ立ち寄り大衆を教化したという。
1861年イギリス初代公使オールコックが兵庫港視察の折、宿泊した記録がある。
薬師出現の霊泉は1333年後醍醐天皇が隠岐から還幸の途中兵庫で病気となり、この水を薬水として献上したところたちまち快癒したという縁起が残る。
平清盛が後白河法皇を幽閉した建物(萱の御所)跡にあった石碑が、運河拡張工事で水没することになったため、当寺に移されてきた。旧碑が破損したため現在残るのは再建した碑だが、ここまでくると、もはや縁もゆかりが無い謎オブジェである。
太平洋戦争の神戸空襲、阪神淡路大震災の被害を受け、2000年に現在の姿に復興した。

本堂


薬師出現の霊泉

萱の御所跡碑


時宗 醫(医)王山 薬仙寺
天平18年(746年)行基による開山と伝えられています。
承元元年(1207年)に法然上人が讃岐に配流される際、こちらに立ち寄り、民衆を教化されたとのこと。
元々は天台宗だったようですが、延文年間(1356年~1360年)に京の霊山国阿(時宗8世)が中興し、時宗に改宗しています。
また元弘の変(1333年)の時、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が、京に還幸の途中、兵庫津の福厳寺で病床に臥した。薬仙寺住職が、この井戸に湧いた水を天皇に献上したところ、天皇の病はたちまち癒えたという。
さらに、この薬仙寺にて、日本で最初の施餓鬼会が行われたと伝えられており、境内にはその碑が建てられていました。
萱の御所跡碑は、後白河法皇が平清盛に幽閉された場所で、元はここから北東約100メートルの地にあったそうで、昭和29年の新川運河拡張工事に際して、薬仙寺に石碑が移されたとのこと。
御朱印をいただこうかと思ったのですが、この日は何か取材があったのか、境内でカメラを持った方などがいらっしゃり、忙しそうにされていたため断念しました。
また別の機会に伺いたいと思います。
神戸市兵庫区今出在家町4-1-14

寺標
脚立が見えていますが、何かの取材か撮影をしていたみたいでした

山門

縁起

本堂



おびんずるさま

本堂内
御本尊の薬師如来坐像と脇侍仏の長谷試十一面観世音立像が祀られているとのこと


大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント

後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧泉


神戸空襲戦没者慰霊碑


萱の御所跡碑


大施餓鬼会日本最初之道場の碑

六地蔵

本堂 横から


[福原西国三十三観音1番札所]
[兵庫七福神 寿老人]
境内に一歩入ると、視界が開けてすごく開放的です。
敷地の塀に沿っていろいろな歴史的な遺物があり、とてもためになります。
はるか古から、現代まで、思いを馳せることができます。

御朱印 福原西国三十三観音1番

御朱印 兵庫七福神 寿老人

寺門

由緒

花山法皇歌碑

花山法皇歌碑について

詠歌踊り念仏連名(左)

詠歌踊り念仏連名(右)

詠歌踊り念仏連名について

六地蔵

施餓鬼日本最初之碑

萱の御所跡

萱の御所跡について

神戸大空襲慰霊碑

神戸大空襲慰霊碑について

後醍醐天皇御薬水

後醍醐天皇御薬水について

十三重石塔

戦災震災モニュメント

モニュメントについて

本堂

五輪塔
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