たけじんじゃ
多家神社
広島県 矢賀駅
社務所:8:00〜18:00
安芸国安芸郡の式内後裔社です。安芸国の式内社は3社すべてが名神大社というなかなかに高い崇敬が集められていました。その中でも多家神社は神武天皇さまが日向→大和へ向かうまでの行宮跡に創建された神社であり、「埃宮」の別名も持ちます。
《鳥居と石門》
よく神社行くと鳥居じゃないこの石柱だけの門がありますが、たまになんと書いているのかわからない文言の時がありますよね。
《表参道》
小高い丘の上にあります。
《境内》
工事していたのかトラックが何台か止まってました。
《手水舎》
水は止まってました。
《宝蔵》
広島城にあった三の丸稲荷社から移築されたもので、校倉造の様式となっています。同じ建築様式の建物が石上神宮と酒解神社にありますね。
《由緒書き》
👁チェックポイント‼️
式内社である多家神社は中世になると社勢が衰え所在がわからなくなってしまいます。そして江戸時代になると多気神社であるという主張する松崎八幡宮(具体的には境内社のたけい社)と安芸国総社が長らく争っていました。
そして明治に式内社への関心が高まったときこの問題も激化し、最終的には現在地に新たに多気神社を創建し、争いが再発しないよう論社の2社を廃絶し、古記も全て焼却されました。
《拝殿》🙏
同じように論争が絶えなかった例として徳島の忌部神社があり、あちらは決着がつかなかった末に、折衷案で現在の忌部神社を新たに創建して終結しました。
神社と古記まで焼却するのはやりすぎだったような気も・・・
《おみくじ》
神武天皇さまに所以の深い八咫烏モチーフとなっています。
《御朱印》
2種類あります。書き置きならすぐに、直書きは預けて後日取りに来なければなりません。
《社務所》
御朱印とともに八咫烏と金鵄の描かれた絵馬をいただきました。
式内名神大社「安芸国安芸郡 多家神社」の後継神社として、明治6年(1873年)に創祀された。
社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡に創祀されたものとしている。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。
中世には武士の抗争により社勢が衰退し、所在がわからなくなった。江戸時代になると、境内社に「たけい社」のあった「松崎八幡宮」と、安芸国総社である「総社」が式内多家神社の後裔社を主張し、論争となった。結局、明治6年両社を廃止し、現在地の「誰曽廼森(たれそのもり)」に社殿を造営して、両社で祀られていた神を祀る「多家神社」が新たに創建された。この際、両社に伝わる古記は、後の争いを避けるために全て焼却されたという。翌明治7年に県社に列格した。
今日は朝から雨でした。土曜日なので昼に腰のリハビリの予約を入れています。しかし、母親が土曜日も仕事になり、リハビリが終わって帰ってもお昼寝してしまうと思い、思い切って神社参りです。
何か音がするなと思い、境内の方を見ると、結婚式かな?やってました。
まぁ、僕はあまり邪魔にならないように行動しました。
お参りもして、さて、御朱印を頂きに行こうと。あっ!!!小銭がない。。100円玉があまりない・・・・。
御朱印はいただける金額は少なからずあるのだが・・・と思い、頂きに行ったところ、御朱印が2枚。ありました。「えっ!!!」「ど、どうしよう!2枚とも頂いたら小銭がたらない」
恐る恐る「もうしわけありません。大きいのしかないのですが・・・。よ、よろしいでしょうか?」と、そしたら「あ、大丈夫ですよ」と優しい声。
よかった。では両方をと多家神社の御朱印と埃宮(えのみや)の御朱印を頂きました。
あ~~~失礼なことしてしまった。申し訳ありません。
今後気を付けます。
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