いちのみやぬきさきじんじゃ
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楽しみ方一之宮貫前神社のお参りの記録一覧(4ページ目)

本日は一ノ宮貫前神社にお邪魔しました。
実家からさほど遠くなく、更に前の職場にめっちゃ近く、近いゆえ真面目に参拝してなかった実にすいません
1400年の歴史があり、社殿は徳川家光が再建、徳川綱吉が大掛かりな修理をして今に至るとか。周囲の木々も1000年越えの巨木で、なんとと厳かな空間です
この機会にゆっくりじっくりまたりとさせていただきました

総門

灯篭

下り宮が珍しいって子供の時は知らんかったー

末社の月詠神社

周囲はとってと自然溢れてる

拝殿。美しい

拝殿の装飾。鮮やかー

末社の日枝神社と伊勢内宮、外宮

御朱印ありがとうございました

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさき~)は、群馬県富岡市にある神社。式内社(名神大社)、上野国一之宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は経津主神と姫大神。
当社は社殿の配置が変わっていて、一般的な神社が平地または階段を登った先に社殿があるが、当社は総門(神門)をくぐると階段のはるか下の方に社殿がある。この配置を「下り宮」というようで、広い意味では「出雲大社」も下り宮だが、もっと急に下る形になっている。当社は、宮崎県の鵜戸神宮、熊本県の草部吉見神社(くさかべよしみ~)と並び、「日本三大下り宮」とも言われている。
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年)、物部姓磯部氏が鷺宮(さぎのみや:現・安中市)に氏神である経津主神を祀り、鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめたに:現所在地の旧称)に社を定めたのが始まりとされる。飛鳥時代には天武天皇の命により、初の奉幣(勅使が神社に幣帛を奉ること)があった。
平安時代には、『延喜式神名帳』に「上野国甘楽郡 貫前神社 名神大」と記載され、上野国一之宮とされた。平安期までには神階が最高位の正一位に達していたものと推定されている。
平安時代中期以降、源頼義・義家父子をはじめ武家の崇敬を集め、室町時代から戦国時代にかけて、越後上杉氏、相模後北条氏、甲斐武田氏の庇護を受け、江戸時代には徳川将軍家から社殿の整備等多大な庇護を受けた。江戸時代までは「抜鉾神社」と称していたが、明治に入り近代社格制度で国幣中社に指定されると、延喜式記載の「貫前神社」に改称した。
当社は、上信電鉄・上州一ノ宮駅の東北東0.5kmの、南方を流れる鏑川の河岸段丘上にある。南側の境内入口は下仁田街道(県道198号線)に面していて、そこから総門までの300mほどの登り参道は、当社のために整備されたのか、県道209号線という別の番号が付いている。上述の通り「下り宮」なので、総門までが登り坂、神門から社殿までが下り階段となっている。非常に特徴的。個人的には、徳川3代将軍が建立し、5代将軍綱吉が極彩色の漆塗りをした<本殿>、<拝殿>がとにかく美しくイチ押し。
今回は2回目の参拝。前回2020年8月に参拝した時は、上野国の神社の初参拝であったため、御朱印帳を購入し御朱印を拝受。ただ、「全国一の宮御朱印帳」に御朱印を拝受するのを忘れたため、今回はこのために参拝。前回参拝時は、拝殿が修復工事中で拝殿に近づくことができずよく見えなかったが、今回はそれもなく、極彩色で美しい拝殿を近くでじっくり見ることができた。
参拝したのは週末の昼ごろ、自分以外にも家族連れや夫婦ペアなど、参拝者がちらほら来ていた。

前回参拝時は境内南側の入口から入ったので、今回は東側の入口から境内に向かってみる。

境内の最も高い場所、神域入口の<総門>。写真中央にある、当社の青銅燈籠は非常に美しい。

青銅燈籠は、江戸時代末期1865年の作。表面に寄進者の名前がたくさん細かく彫り込まれている。

<総門>全景。後ろに高い木があまり見えないのは<下り宮>だから。

あまり他では見ないタイプの<狛犬>。表情が若干ファニー。

右側の<狛犬>は、ちょっと痩せ型。

<総門>をくぐる。<楼門>が低い位置に見える。

<総門>をくぐったところで、境内を見下ろす。

階段を半分ほど下った右側にある<斎館>。

階段を半分ほど下った左側にある末社<月読(つきよみ)神社>。

<楼門>2階ぐらいの高さまで下ってからのショット。楼門と回廊(翼廊)は江戸3代将軍徳川家光による造営。いずれも国指定の重要文化財。

階段を下り切った左側にある<手水舎>。

階段を下り切った右側にある<社務所>。御朱印はこちら。

楼門を脇からくぐって<拝殿>。本殿と拝殿は江戸3代将軍徳川家光が造営し、5代将軍綱吉が大規模修理を行い、漆で極彩色を施した。いずれも国指定の重要文化財。

<拝殿>正面。極彩色の漆塗りが極めて美しい。

<社殿>全景①。

<社殿>全景②。

拝殿の後ろの<本殿>。単層2階建てで<貫前造>という独特な造り。

本殿の左側にある、摂社<抜鉾若御子(ぬきほこわかみこ)神社>。安閑天皇の時代(531年~535年)の創建の古社。『上野国神名帳』にも「従五位抜鉾若御子明神」と記載がある。社殿は1815年の造営。

<拝殿>(左)と<楼門>(右)。

楼門の回廊(翼廊)はほどほどの長さで切れている。

<下り参道>を下から見上げたところ。

総門から少し下った左側にある大きく平らな境内地(仮殿敷地)があり、境内社(末社)がいくつかある。左から順に、<二十二末社>、<日枝神社>、<伊勢内宮>、<伊勢外宮>。

仮殿敷地の入口、西門近くにある<スダジイ>の古木。樹高15m、根回り4m、枝張り東西20m、南北18m、推定樹齢1000年。

総門から振り返ると<大鳥居>。鏑川沿いの市街地を見下ろせる。

こんにゃくパークが終わって抱き合わせで行ってきました。
大鳥居に重なる様に桜が綺麗に咲いておりました。

大鳥居と桜が良い感じです^ ^

富岡市にある一ノ宮。
製紙・養蚕業の守神。

桜が見頃を迎えています。

生憎の雨天になってしまいましたが、一之宮貫前神社に初めてお詣りさせていただきました。

社石です

看板です

貫前神社の御由緒です

階段を登ると第一鳥居

参道からの楼門です

楼門を抜けると下がり階段の先に拝殿が鎮座してました

手水舎です

本殿です

平日の午前中に訪れたのでほとんど参拝者がおらず静かにお参りができました。御社殿および楼門は国の重要文化財であるだけあって、なかなかの迫力があります。平成21年〜25年にかけて平成の大修復を行っているので、大変見応えがありました。

鳥居

総門

下り参道(総門より楼門を望む)

下り参道(楼門より総門を望む)

楼門<国の重要文化財>

楼門<国の重要文化財>

拝殿<国の重要文化財>

幣殿<国の重要文化財>

拝殿<国の重要文化財>

本殿<国の重要文化財>

月読社

上野国一之宮である貫前神社へ。
高台の上にある見晴らしの良い神社です。
自宅から下道で富岡市まで。。
160キロ。
なかなか長かったぜぃ。笑
境内は赤を基調とした作りで稲荷系な感じが漂ってもいました。
富岡市の製紙業や養蚕業の方々と昔から関わりが深い神社だった様です。
せっかくここまで来たので少し先まで足を伸ばして下仁田栽培のネギとこんにゃくを買い、自宅で芋煮を作りました。笑

麓にある大きな鳥居。車で鳥居を通過すると車にも御利益がありそうに思ってしまいます^ ^

階段上から境内。お城っぽくも見えますね。

階段下にある本殿。赤基調が鮮やかです。

正面入り口の看板。

入り口前の鳥居の中から上信越道がみえます。

御朱印。上野国一之宮です。

下仁田産のネギとこんにゃくで芋煮。ネギの青い部分が甘くて美味しかった♫

(参拝2回目(2021年5月8日)分を先に投稿済み)
当日が、群馬県の寺社仏閣初参拝。初めての土地に行く時は、まず始めに一之宮に参拝して、現地の神様にご挨拶することにしているので、群馬県≒上野國となると自動的に上野國一之宮である当社に参拝することに。
東京からだと練馬ICから関越道を使って100km超になるので、到着するまでにそれなりの疲労度を覚悟したが、意外と疲れなかったのでひと安心。
当社は事前の調査で、<下り宮>の代表的神社ということだったので非常に楽しみにしていたが、期待通りの見事な神社で大満足。境内社も細かく見て廻り、参拝は大満足であったが、ご朱印拝受でちょっとしたミスを。上野国の神社参拝のキックオフということで、当社のオリジナル御朱印帳を購入し、御朱印を拝受するまでは良かったものの、別途<全国一の宮御朱印帳>にも御朱印をもらうべきところ、持参するのをすっかり忘れてしまった。これで自分的には要再参拝確定。残念...涙
※ただ参拝時、拝殿正面を修復作業中だったので、次回は美しい拝殿を見られると思うとちょっとした慰めに。

境内南端の入口。県道198号線沿いにあって、<社号標>はあるが、地味で目立たない。ここから参道を徐々に登って行くが、面白いことにこの参道は県道209号線という公道。参拝者のクルマだけではなく、関係のないクルマも走っている。

参道を登って行くと、途中で踊り場のような場所がある。ここから歩行者は鳥居までの階段を登る。クルマは写真枠外左にある急峻な道を登っていく。

鳥居をくぐり振り返ると、南側の美しい山々が見渡せる。

鳥居から100mほど進むと、神域の入口<総門>がある。両サイドにある、江戸末期奉納の青銅鳥居が美しい。

<下り宮>なので、総門の向こうには参道は見えず、<楼門>の屋根と森の木々が見える。

総門をくぐったところから、石段の下の<楼門>を見下ろす。他の神社では味わえない景色。

石段を半分下って左側にある<月読神社>。建物自体は、江戸時代初期1635年以前の旧拝殿。

石段を半分下って右側にあるのは<斎館>。

石段を最後まで下って左側にある<手水舎>。

手水舎の<手水盤>には、元禄11年(1698年)にこの手水盤を奉納した人の話が書いてあるみたい。

石段を下り切った正面にある<楼門>。

参拝所と賽銭箱があるので、まずは二礼二拍手一礼。でも、向こう側に拝殿が見えない?

見えない理由を確認しに、右側から楼門と透塀の向こう側に廻ってみると、、、

拝殿正面は現在絶賛工事中。美しい拝殿が見られない...涙
なお、拝殿、幣殿、本殿、回廊は、江戸幕府3代将軍・徳川家光により1635年に造営、5代将軍綱吉により1698年に改修。この改修時に極彩色の漆が塗られ華麗な造りとなっている。いずれも国指定の重要文化財。

適当に切り取った<拝殿>の彫刻。

拝殿後ろの<本殿>は、こんなに美しい。本殿は<貫前造>という独特な構造で単層だが内部は2階建て。稲含山に向けて<雷神小窓>が設けてある。

こちらが<雷神小窓>。

適当に切り取った<本殿>の彫刻。

本殿の左脇にある唯一の摂社<抜鉾若御子(ぬきほこわかみこ)神社>。創建はなんと安閑天皇の御代(531年-535年)で、『上野国神名帳』にも神階の記載がある。社殿は1815年の造営。明治時代に近隣から遷座。

社殿の左外側の<経蔵跡>。明治維新の廃仏毀釈で破却され、所蔵の鎌倉時代以来の諸経や安置してあった普賢菩薩などの仏像とともに近くの河原で焼却されてしまったとのこと。

社殿の裏にある<大杉(藤太杉)>。樹齢1000年超。平安爺大中期の939年下野國唐沢山城主・藤原秀郷が平家討伐の際、当社に参詣し、歳の数36本の杉の苗木を奉納したとのこと。

透塀の右手にある<神楽殿>。

楼門に向かって右手にある<社務所>。御朱印はこちら。

参拝が終わって帰る時は、普通と逆で階段を登る。

総門をくぐって、石段を下りずに左手に進むと、末社群が一堂に祀られているエリアに出る。写真左から<二十二社>、<日枝神社>、<内宮>、<外宮>。

末社群の中心にある<日枝神社>。

こちらが<内宮>。

こちらが<外宮>。

参拝終了。当社はどこを写真で切り取っても絵になるので、一発でお気に入りの神社になってしまった。

当日は、初めての上野國の神社参拝ということで、当社オリジナル御朱印帳を上野國神社専用御朱印帳として購入。下り宮の楼門が描かれている。
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