いちのみやぬきさきじんじゃ
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一之宮貫前神社ではいただけません
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一之宮貫前神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年06月19日(土)
参拝:2021年5月吉日
一之宮貫前神社(いちのみやぬきさき~)は、群馬県富岡市にある神社。式内社(名神大社)、上野国一之宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は経津主神と姫大神。
当社は社殿の配置が変わっていて、一般的な神社が平地または階段を登った先に社殿があるが、当社は総門(神門)をくぐると階段のはるか下の方に社殿がある。この配置を「下り宮」というようで、広い意味では「出雲大社」も下り宮だが、もっと急に下る形になっている。当社は、宮崎県の鵜戸神宮、熊本県の草部吉見神社(くさかべよしみ~)と並び、「日本三大下り宮」とも言われている。
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年)、物部姓磯部氏が鷺宮(さぎのみや:現・安中市)に氏神である経津主神を祀り、鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめたに:現所在地の旧称)に社を定めたのが始まりとされる。飛鳥時代には天武天皇の命により、初の奉幣(勅使が神社に幣帛を奉ること)があった。
平安時代には、『延喜式神名帳』に「上野国甘楽郡 貫前神社 名神大」と記載され、上野国一之宮とされた。平安期までには神階が最高位の正一位に達していたものと推定されている。
平安時代中期以降、源頼義・義家父子をはじめ武家の崇敬を集め、室町時代から戦国時代にかけて、越後上杉氏、相模後北条氏、甲斐武田氏の庇護を受け、江戸時代には徳川将軍家から社殿の整備等多大な庇護を受けた。江戸時代までは「抜鉾神社」と称していたが、明治に入り近代社格制度で国幣中社に指定されると、延喜式記載の「貫前神社」に改称した。
当社は、上信電鉄・上州一ノ宮駅の東北東0.5kmの、南方を流れる鏑川の河岸段丘上にある。南側の境内入口は下仁田街道(県道198号線)に面していて、そこから総門までの300mほどの登り参道は、当社のために整備されたのか、県道209号線という別の番号が付いている。上述の通り「下り宮」なので、総門までが登り坂、神門から社殿までが下り階段となっている。非常に特徴的。個人的には、徳川3代将軍が建立し、5代将軍綱吉が極彩色の漆塗りをした<本殿>、<拝殿>がとにかく美しくイチ押し。
今回は2回目の参拝。前回2020年8月に参拝した時は、上野国の神社の初参拝であったため、御朱印帳を購入し御朱印を拝受。ただ、「全国一の宮御朱印帳」に御朱印を拝受するのを忘れたため、今回はこのために参拝。前回参拝時は、拝殿が修復工事中で拝殿に近づくことができずよく見えなかったが、今回はそれもなく、極彩色で美しい拝殿を近くでじっくり見ることができた。
参拝したのは週末の昼ごろ、自分以外にも家族連れや夫婦ペアなど、参拝者がちらほら来ていた。
当社は社殿の配置が変わっていて、一般的な神社が平地または階段を登った先に社殿があるが、当社は総門(神門)をくぐると階段のはるか下の方に社殿がある。この配置を「下り宮」というようで、広い意味では「出雲大社」も下り宮だが、もっと急に下る形になっている。当社は、宮崎県の鵜戸神宮、熊本県の草部吉見神社(くさかべよしみ~)と並び、「日本三大下り宮」とも言われている。
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年)、物部姓磯部氏が鷺宮(さぎのみや:現・安中市)に氏神である経津主神を祀り、鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめたに:現所在地の旧称)に社を定めたのが始まりとされる。飛鳥時代には天武天皇の命により、初の奉幣(勅使が神社に幣帛を奉ること)があった。
平安時代には、『延喜式神名帳』に「上野国甘楽郡 貫前神社 名神大」と記載され、上野国一之宮とされた。平安期までには神階が最高位の正一位に達していたものと推定されている。
平安時代中期以降、源頼義・義家父子をはじめ武家の崇敬を集め、室町時代から戦国時代にかけて、越後上杉氏、相模後北条氏、甲斐武田氏の庇護を受け、江戸時代には徳川将軍家から社殿の整備等多大な庇護を受けた。江戸時代までは「抜鉾神社」と称していたが、明治に入り近代社格制度で国幣中社に指定されると、延喜式記載の「貫前神社」に改称した。
当社は、上信電鉄・上州一ノ宮駅の東北東0.5kmの、南方を流れる鏑川の河岸段丘上にある。南側の境内入口は下仁田街道(県道198号線)に面していて、そこから総門までの300mほどの登り参道は、当社のために整備されたのか、県道209号線という別の番号が付いている。上述の通り「下り宮」なので、総門までが登り坂、神門から社殿までが下り階段となっている。非常に特徴的。個人的には、徳川3代将軍が建立し、5代将軍綱吉が極彩色の漆塗りをした<本殿>、<拝殿>がとにかく美しくイチ押し。
今回は2回目の参拝。前回2020年8月に参拝した時は、上野国の神社の初参拝であったため、御朱印帳を購入し御朱印を拝受。ただ、「全国一の宮御朱印帳」に御朱印を拝受するのを忘れたため、今回はこのために参拝。前回参拝時は、拝殿が修復工事中で拝殿に近づくことができずよく見えなかったが、今回はそれもなく、極彩色で美しい拝殿を近くでじっくり見ることができた。
参拝したのは週末の昼ごろ、自分以外にも家族連れや夫婦ペアなど、参拝者がちらほら来ていた。
前回参拝時は境内南側の入口から入ったので、今回は東側の入口から境内に向かってみる。
境内の最も高い場所、神域入口の<総門>。写真中央にある、当社の青銅燈籠は非常に美しい。
青銅燈籠は、江戸時代末期1865年の作。表面に寄進者の名前がたくさん細かく彫り込まれている。
<総門>全景。後ろに高い木があまり見えないのは<下り宮>だから。
あまり他では見ないタイプの<狛犬>。表情が若干ファニー。
右側の<狛犬>は、ちょっと痩せ型。
<総門>をくぐる。<楼門>が低い位置に見える。
<総門>をくぐったところで、境内を見下ろす。
階段を半分ほど下った右側にある<斎館>。
階段を半分ほど下った左側にある末社<月読(つきよみ)神社>。
<楼門>2階ぐらいの高さまで下ってからのショット。楼門と回廊(翼廊)は江戸3代将軍徳川家光による造営。いずれも国指定の重要文化財。
階段を下り切った左側にある<手水舎>。
階段を下り切った右側にある<社務所>。御朱印はこちら。
楼門を脇からくぐって<拝殿>。本殿と拝殿は江戸3代将軍徳川家光が造営し、5代将軍綱吉が大規模修理を行い、漆で極彩色を施した。いずれも国指定の重要文化財。
<拝殿>正面。極彩色の漆塗りが極めて美しい。
<社殿>全景①。
<社殿>全景②。
拝殿の後ろの<本殿>。単層2階建てで<貫前造>という独特な造り。
本殿の左側にある、摂社<抜鉾若御子(ぬきほこわかみこ)神社>。安閑天皇の時代(531年~535年)の創建の古社。『上野国神名帳』にも「従五位抜鉾若御子明神」と記載がある。社殿は1815年の造営。
<拝殿>(左)と<楼門>(右)。
楼門の回廊(翼廊)はほどほどの長さで切れている。
<下り参道>を下から見上げたところ。
総門から少し下った左側にある大きく平らな境内地(仮殿敷地)があり、境内社(末社)がいくつかある。左から順に、<二十二末社>、<日枝神社>、<伊勢内宮>、<伊勢外宮>。
仮殿敷地の入口、西門近くにある<スダジイ>の古木。樹高15m、根回り4m、枝張り東西20m、南北18m、推定樹齢1000年。
総門から振り返ると<大鳥居>。鏑川沿いの市街地を見下ろせる。
すてき
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惣一郎1269投稿
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