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ひだいちのみやみなしじんじゃ

飛騨一宮水無神社の御由緒・歴史
岐阜県 飛騨国府駅

ご祭神《主祭神》
 御歳神
《配祀神》
 大己貴命
 三穂津姫命
 応神天皇
 高降姫命
 神武天皇
 須沼比命
 天火明命
 少彦名命
 高照光姫命
 天熊人命
 天照皇大神
 豊受姫大神
 大歳神
 大八椅命
ご神体位山
創建時代不詳
創始者不詳
ご由緒

創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。
歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。
元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。

文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。
また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。

天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。
高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。

安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています

歴史
歴史[編集] 創建の年代は不詳であるが、清和天皇の時代に従五位上の神階の記事がある。『延喜式』では小社に列格し、飛騨国の一宮とされた。鎌倉時代には「水無大菩薩」と称し、社僧が奉仕した[1]。近世には水無大明神・水無八幡宮と称した。戦国時代の戦乱で祭祀が途絶え、附近の寺が管理したが、元禄5年(1692)から吉田神道系に属するようになった。 1773年(安永2年)の安永騒動(大原騒動)では、水無神社が農民の決起集会の場所となる。騒動に加担した廉で神職の山下和泉守と森伊勢守が磔に遭い、大原紹正が同7年(1778年)に信濃国今井より梶原家熊を招くまで高山に神霊が移された。梶原家熊は唯一神道に基づ...Wikipediaで続きを読む
引用元情報飛騨一宮水無神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E4%B8%80%E5%AE%AE%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=99022349

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