よこくらじ
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横蔵寺ではいただけません
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横蔵寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年05月06日(月)
参拝:2024年4月吉日
岐阜県揖斐川町にあるお寺です。
西国三十三か所の華厳寺にお参りした際 名物「満願そば」をいただいていたお店にパンフレットがあって 揖斐川町にもう一つ立派なお寺があると知ったのでお参りしました。
何でもミイラが安置されているとか。興味津々でのお参りです。(ごめんなさい)
華厳寺から車で15分ほどでした。
駐車場もあってお参りしやすいためか 私の他にも3グループほど参拝されていました。
山寺ですが境内は広いです。
さて肝心のミイラですが 斜里殿にありました。
アクリル板で保護されているのですが はっきり見えます。
写真は撮ってはいけませんね。当たり前ですが。
ミイラというのは言い方がよくありませんね。即身仏です。妙心法師という人物の遺体です。
妙新法師については ウィキペディアに詳しく載っていました。
妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で 俗名を古野小市郎と言った。
天明元年(1781年)に生まれ 諸国を巡って仏道修行をし 文化14年(1817年) 断食修行の後 今の山梨県都留市の御正体山で満36歳で入定 即身仏となったという。
遺体は何らの加工もなく自然にミイラ化したとされる。
また 日本で現存する即身仏では最も若い年齢で入定したものある。
当初は入定した地の山梨県都留郡鹿留村の上人堂に安置されていたが 明治の廃仏毀釈で山から降ろされ 見世物として京都の博覧会などに展示されるなどした後 明治7年(1874年)に山梨県庁が引き取り その後は県病院で医学資料として保管されていた。
明治13年(1880年)には行幸した明治天皇の目にもふれている。
明治23年(1890年) 妙心法師の親族から即身仏の下付の嘆願があった。
山梨県はこれを許可し 即身仏は妙心法師の出身地である横蔵村の横蔵寺に移された。
長く本堂に安置されていたが 現在は平成に入って建設された舎利堂に移されている。
日本で最南端かつ最西端の即身仏は京都市左京区の古知谷阿弥陀寺の弾誓上人のものとされるが 現在は一切公開されていない。
現在拝観可能な即身仏で日本で最南端かつ最西端の即身仏は当寺の妙心法師の即身仏である。
とありました。
由緒については
横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば 最澄は比叡山延暦寺を開創する際に 本尊薬師如来像を自ら刻んだが その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが 延暦22年(803年) 横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし 地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
なお 創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど奥に入った円山の頂上付近にあり 現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが 鎌倉時代 - 室町時代の寺史も 断片的にしかわかっていない。
とも載っていました。
西国三十三か所の華厳寺にお参りした際 名物「満願そば」をいただいていたお店にパンフレットがあって 揖斐川町にもう一つ立派なお寺があると知ったのでお参りしました。
何でもミイラが安置されているとか。興味津々でのお参りです。(ごめんなさい)
華厳寺から車で15分ほどでした。
駐車場もあってお参りしやすいためか 私の他にも3グループほど参拝されていました。
山寺ですが境内は広いです。
さて肝心のミイラですが 斜里殿にありました。
アクリル板で保護されているのですが はっきり見えます。
写真は撮ってはいけませんね。当たり前ですが。
ミイラというのは言い方がよくありませんね。即身仏です。妙心法師という人物の遺体です。
妙新法師については ウィキペディアに詳しく載っていました。
妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で 俗名を古野小市郎と言った。
天明元年(1781年)に生まれ 諸国を巡って仏道修行をし 文化14年(1817年) 断食修行の後 今の山梨県都留市の御正体山で満36歳で入定 即身仏となったという。
遺体は何らの加工もなく自然にミイラ化したとされる。
また 日本で現存する即身仏では最も若い年齢で入定したものある。
当初は入定した地の山梨県都留郡鹿留村の上人堂に安置されていたが 明治の廃仏毀釈で山から降ろされ 見世物として京都の博覧会などに展示されるなどした後 明治7年(1874年)に山梨県庁が引き取り その後は県病院で医学資料として保管されていた。
明治13年(1880年)には行幸した明治天皇の目にもふれている。
明治23年(1890年) 妙心法師の親族から即身仏の下付の嘆願があった。
山梨県はこれを許可し 即身仏は妙心法師の出身地である横蔵村の横蔵寺に移された。
長く本堂に安置されていたが 現在は平成に入って建設された舎利堂に移されている。
日本で最南端かつ最西端の即身仏は京都市左京区の古知谷阿弥陀寺の弾誓上人のものとされるが 現在は一切公開されていない。
現在拝観可能な即身仏で日本で最南端かつ最西端の即身仏は当寺の妙心法師の即身仏である。
とありました。
由緒については
横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば 最澄は比叡山延暦寺を開創する際に 本尊薬師如来像を自ら刻んだが その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが 延暦22年(803年) 横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし 地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
なお 創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど奥に入った円山の頂上付近にあり 現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが 鎌倉時代 - 室町時代の寺史も 断片的にしかわかっていない。
とも載っていました。
駐車場から見える橋
石柱
境内案内図
朱色の橋を渡り
山門に続く坂
手水は観音様
客殿の山門
先に仁王門もあります
扁額が読めません
三重塔と香炉
見事ですね 山寺らしく色落ちした木が好きです
香炉も古く感じます
祠もありました
本堂 とても古く感じます
内陣
もみじの季節にまた来たいです
梁には見事な彫刻
こちらも
木組みが美しくて好きです
お地蔵様ではないのですが
境内図には載ってないような
鐘楼
観音堂
内陣
川を渡って 水車がありました 癒されます
瑠璃殿
斜里殿 こちらにミイラが安置されています
ミイラの説明
帰り道にも水車
すてき
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くるくるきよせん2024投稿
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