しかうみじんじゃ
志賀海神社のお参りの記録一覧(2ページ目)
志賀海神社(しかうみじんじゃ)
旧社格:官幣小社
御祭神:底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神
海神の総本社・龍ノ都とも呼ばれているそうです。
この日は台風かと思うくらい風が強く、
海ノ中道を通過するときはバイクを傾けないと真っ直ぐ走れず、
しかも砂が風で飛んできて痛いの何の・・・
駐車場でもバイクを停めても風で倒れそうだったので、
外れの方で建物の陰で風が弱い場所を見つけ停めました。
御朱印。
御朱印と頂いたときのはさみ紙にも朱印が・・・
なんか昔教科書で見た金印に似てますね。
はさみ紙は乾いたら捨てていましたがこれは捨てられませんねぇ・・・
御朱印帳。
宗像大社でも購入しましたが、
こちらの御朱印帳もどうしても欲しくて購入しました。
最初に御潮井で身を清めます。
ちなみに神社のHPには
『身内に御不幸があられた方には服忌の期間は極力参拝をご遠慮ください。
また、しきたりにより、生理中の方、生後一〇〇日以内のお子様、妊娠中の方の
ご参拝も極力お控えいただいております。』とあります。
二の鳥居。
一の鳥居は人通りが多く写真を撮れませんでした。
摂社:印鑰社
狛犬。
神門が見えてきました。
摂社:山乃神
御社殿。
扁額見るとやっと来れたな!って気分になります。
ここにも御潮井があり清めます。
遥拝所。
雄雌2つの亀石が祀られています。
玄界灘と海ノ中道が見えます。
帰りにまたあの風と砂嵐?の中を走るのかと思うと憂鬱です(苦笑)
摂社:今宮神社
志賀島北東部にある中津宮、
大潮の干潮時にしか歩いて渡れないという沖津宮も予定していて、
大潮ではありませんでしたが干潮時にあわせてきましたが、
日曜日で観光客が多すぎて断念しました。
そちらはまた次回行ってみたいと思います。
筑前国糟屋郡の名神大社です。志賀島…孤島だ!!と思ったらもう地続きでした。宗像大社と同じように表津宮、仲津宮、沖津宮の三社に分かれています。
《一の鳥居》
《印鑰社》
印鑰とは国府の鍵のことで、基本的には総社に安置されてることが多いです。筑前国は総社が不明とのことですがもしやここが…?
《表参道》
緩い坂道です。
神社にたまにある普段通れない橋です。
《楼門》
《由緒書き》
全国の綿津見神社、海神社の総本宮とされています。
《手水舎》
《拝殿》
珍しい妻入の拝殿ですね。
《末社群》
《惣社》
惣社…総社…!?これは間違いないのでは…?
《今宮神社》
御祭神に仕える宮司家「安曇氏」の祖神です。
実は現在のこのお宮は三社のうち表津宮であり、残り二社もそのうち参拝してみたいですね。
神主の夏の自由研究
「壱岐島をはじめ海人の歴史と信仰」
(その1)
海人の長である安曇氏の祖神が祀られる志賀海神社に参詣。旅の旨を奉告し、安心して壱岐島に渡ります。
[本殿]志賀海神社
仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
※綿津見三神
伊奘諾神が黄泉の国から帰り、穢れを祓うために禊をした時に海中で生まれた神。記紀では、海の底で生まれた底綿津見神、海の中ほどで生まれた仲綿津見神、海面で生まれた表綿津見神と順番が示され、海底から海面に浮上する過程で生まれた神様といえる。
「摂社]今宮神社
宇都志日金折命 :(うつしひかねおりのみこと)
住吉三神
天児屋根神
安曇磯良丸命をはじめとする神裔安曇諸神
安曇氏(あずみうじ)
古代日本を代表する海人族、海人部として知られる有力氏族。
安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。
記紀に登場し、「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
ちはやぶる
鐘(かね)の岬(みさき)を
過ぎぬとも
我れは忘れじ
志賀(しか)の皇神(すめかみ)
意味: 荒れ狂う鐘ケ崎(鐘崎)を過ぎても、私は忘れません、(海の神である)志賀(しか)の神を。
本殿
志賀海神社
摂社
今宮神社
延喜式内名神大社(筑前國糟屋郡/志賀海神社三座)、旧官幣小社、現別表神社です。
一回目の参拝のときには、いろいろと見逃していたので、じっくり参拝させていただきました。
今回も博多港から市営の渡船で参りました。
境内には摂末社十三社、神功皇后にまつわるいわれのある亀石、奉納された陰陽石などが祀られており、見どころ満載です。
御朱印をいただきました。
感謝です!!拝。
遥拝所と亀石です。
遥拝所は、対岸に鎮座する摂社大嶽神社・末社小嶽神社、神宮、宮中三殿などを遥拝するためとのことです。
亀石です。
往古、神功皇后が三韓出兵のおりに、対岸の打昇浜(うちあげのはま)において無事凱旋できるように祈願したところ、黄金の雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神とが顕われ、神功皇后に干珠満珠(かんじゅまんじゅ)の玉を授け、これにより航海の安全を導いたとされ、その後雌雄の亀は池に放たれ、後に石となって現在の金印公園のあたりに現れ、寛文十年四月十一日(グレゴリオ暦1670年5月29日)に当神社の社前に納められたとのことです。
奉納された数々の石
福岡県のおすすめ2選🎍
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