こんぜんじ|高野山真言宗|誓法山
金前寺のお参りの記録一覧
金崎宮登り口横にある金前寺さんにお参りです🙏こじんまりしたお寺さんですが、とても綺麗にされていて気持ちの良い境内。
お祭りの出店に敦賀のお菓子屋さんを発見。お土産を購入。お店に角鹿会?と書いてあります。御住職もいらっしゃいました。
本堂に書き置きの御朱印と由緒書き。
角鹿会のパンフレットを発見。
気比神宮が起源の宗派の違う六ヶ寺が、敦賀を魅力溢れる故郷作りを目的に活動をする為に発足した団体だそうです。
角鹿会の御朱印帳もありました。
六ヶ寺巡ってみたいですね☘️
聖武天皇の勅願により泰澄大師が736年に開祖した高野山真言宗のお寺。往時は伽藍十二坊を有し、気比神宮の奥の院として弘法大師空海が巡錫しました。
南北朝時代、新田義貞が金ヶ崎城を築き、当山は戦いの地の本宮になりました。
ご本尊は十一面観音座像 (袴掛観音)
今昔物語にも登場し、縁結びの御利益があります。
北陸三十三ヶ所観音霊場 特番
本堂
こちらに書き置きの御朱印があります。
この日は書き置きのみでした。
小さな五重塔
北陸三十三ヶ所観音霊場 特番札所
若狭観音霊場 第二番札所
北陸白寿観音霊場 第三番札所
袴掛観音の御朱印
角鹿会の御朱印
【越前國 古刹巡り】
金前寺(こんぜんじ)は、福井県敦賀市金ケ崎町にある高野山真言宗の寺院。山号は誓法山。本尊は十一面観世音菩薩(袴掛観音(はかまかけ~))。北陸三十三ヵ所観音霊場・特番、若狭三十三ヶ所観音霊場・第2番。
創建は奈良時代の736年、聖武天皇の勅願により泰澄が十一面観音を本尊として開山したのが始まり。天皇から下賜された金光明経を金櫃に納め山に埋めたため、山は金ケ崎、当寺は金前寺と名付けられたとされる。往時は氣比神宮の奥之院として、現在の金崎宮一体に伽藍十二坊を有した。当寺の本尊は「袴掛観音」とも呼ばれ、平安時代に編纂された『今昔物語集』にも由来が記され、縁結びの御利益で知られていた。
建武の新政期1337年の金ケ崎の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を奉じて金ケ崎城にて北朝方の斯波高経の軍と戦った。戦国時代には織田信長による越前攻めで朝倉市の築いた金ケ崎城は落城し、当寺も兵火により灰燼に帰した。本尊の観音は焼失を免れ、江戸時代前期1662年に打宅宗貞(うたむねさだ)が現在地に観音堂を再建した。しかし、太平洋戦争末期の1945年、米軍による敦賀大空襲で一切を焼失した。戦後1946年に本堂を再建し、当寺の末寺であった気比蔵寺の本尊である十一面観音立像を本尊として迎えている。
当寺はJR北陸本線・敦賀駅の北方2kmの敦賀港そば、天筒山の南麓にある。敦賀市の北東の外れにあって、南川には旧敦賀港駅の引き込み線(線路)や赤レンガ倉庫などがあり、昭和戦前に軍港として栄えた片鱗を確認できる。米軍空襲で完全に焼失したこともあり、天筒山南麓に沿って東西に細長い境内には古木などはなく、古刹の雰囲気はない。大きな本堂や他諸施設も新しくきれいで、錚々たる由緒を知って逆に驚かされる。
今回は、旧官幣中社・金崎宮のそばにあること、若狭三十三観音霊場の札所であることから参拝することに。参拝時は平日の午前中で、自分以外には参拝者は見掛けなかった。
※当社では数種類の御朱印を書置きで用意されているが、自分の御朱印帳のサイズとは合わず、迷ってまごまごしていると、ご住職が現れて直書きで御朱印を拝受した。ご住職とは当寺や敦賀の歴史などのお話をさせていただき、とても楽しい時間を過ごせた。感謝。(^▽^)/
天筒山の南麓にある境内。脇の道は<金崎宮>の参道になっている。
境内全景。山の際の所に諸仏等が立っている。
山際全景。左手にはミニ五重塔、右手には梵鐘、仏像などが立っている。
上の段には地蔵菩薩像、鐘楼、下の段には弘法大師像、観音菩薩像、不動明王像が立っている。
ミニ五重塔のアップ。小さいがかなり精巧に造られている。
<本堂>正面。御朱印は本堂内部にて。堂内に上がって参拝させていただける。
<本堂>全景。後ろは<庫裏>かな。
庫裏の後ろの境内。
こちらは<歓喜天堂>。
こちらは<絆堂>。
こちらは、石仏等を収めた石製小社。(^▽^)/
気比神宮の奥の院として位置づけられ、平安時代初期の弘仁2年(811)には弘法大師空海(真言宗の開祖)も金前寺を訪れているそうです。
何度も焼失
元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道行脚の際訪れ「 月いずこ 鐘は沈る うみのそこ 」の句を残し、宝暦11年(1761)には境内に句碑(鐘塚)が建立されています。
芭蕉の句の鐘は
延元元年(1336年)10月、新田義貞は金ヶ崎に城を築き、翌2年3月6日、足利尊氏の軍に攻められて敗走し、
後醍醐天皇の皇太子恒良親王は後に捉われ、皇子尊良親王及び、新田義顕(義貞の長男)は、金前寺の観音堂にて自害される。
この戦いに敗れる際、義貞は陣鐘を海に沈めた。そののち国守が海女に命じて探させたが、鐘の竜頭がさかさまに落ち込んで泥に埋まり、引き揚げることができなかった。と云われているそうです。
北陸三十三ヶ所観音霊場特番札所。若狭三十三観音霊場第2番札所。若越新四国八十八箇所第4番札所。
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