おおみどうじ(のまだいぼう)|真言宗豊山派|鶴林山(かくりんざん)
大御堂寺(野間大坊)愛知県 野間駅
納経所/7:00~17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳にお書き入れ | |||
御朱印帳 | |||
駐車場 | 東、正面、西 計3ヶ所 |
白河天皇の勅願寺で、知多四国八十八ヵ所の霊地として人々の信仰を集める野間大坊。源頼朝の父、源義朝の最期の地としても有名です。
御朱印帳は青色(兜のイラスト)と黄色(微笑み地蔵)しかありません。
大坊の楽市限定の御朱印あります。(1月のみ第2日曜日・2月、3月、6月、12月の第1日曜日のみ頒布されます)
参拝記録
知多四国第50番札所 鶴林山 大御堂寺
知多四国第51番札所 野間大坊
大門
大御堂寺 本堂
源義朝公の墓
織田信孝の墓
鎌田政家と妻の墓
鐘楼
弁財尊天
血の池
大マニの堂
野間大坊 客殿
客殿
広い所でのんびり出来た場所でした。
中の休暇何処のまどかのそばも美味しいかったです。
まどかのザルそば
まどかです。
直書き御朱印です
直書き御朱印です。
東海三十六不動尊霊場 第21番 大御堂寺(野間大坊)
真言宗豊山派 本尊 地蔵菩薩、不動明王
大御堂寺より、野間大坊の方が名は通っています。知多四国霊場巡りをされている方であれば、50番大御堂寺、51番野間大坊で別々となっていて、野間大坊客殿にて50番、51番の御朱印が拝受出来る事は知られています。
また、野間大坊が有名な事は源義朝が悲運の最期を遂げた場所としても知られています。
あまり知られていませんが、織田信長の三男信孝の墓もあります。信孝は、明智光秀を豊臣秀吉と組み破りましたが、後に柴田勝家と組んだため、豊臣秀吉と兄の織田信雄に攻められてこの地で自刃しました。
大御堂寺 寺号標
大御堂寺 大門
出世稲荷
鐘楼堂
弁財尊天
大御堂寺 本堂
源義朝の御廟
平治の乱にて平清盛に敗れた源義朝は敗走中、家臣鎌田政家の妻の実家である長田忠致を訪ね野間に滞留し、長田忠致に殺害された。
義朝はこの出来事に、『我に木太刀の1本でもあれば、おめおめ討たれはすまいに…』と言い残して無念の死を遂げたとされる。
織田信孝の墓
鎌田政家と妻の墓
池禅尼の塚
源頼朝を助けた平清盛の継母
本四国のお砂踏み霊場
悠紀殿
野間大坊客殿
正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)と言います。お寺の歴史は古く、天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立しました。その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されました。
のちに源義朝がこの地で謀殺され、それを供養するために源頼朝が本尊様の念持仏を寄進し、塔や金堂(こんどう)講堂など諸設備が調った七堂伽藍を造営します。また豊臣や徳川の庇護も厚く、各時代で繁栄してきました。本尊様が源頼朝の願いを叶えたことから、祈願成就・開運の寺として信仰を集めています。
名称 | 大御堂寺(野間大坊) |
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読み方 | おおみどうじ(のまだいぼう) |
通称 | 野間大坊 |
参拝時間 | 納経所/7:00~17:00 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0569-87-0050 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://nomadaibou.jp |
絵馬 | あり |
SNS |
知多四国霊場 | |
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知多四国霊場 | |
尾張三十三観音霊場 第8番 | 御本尊:聖観音 |
東海三十六不動尊霊場 |
山号 | 鶴林山(かくりんざん) |
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宗旨・宗派 | 真言宗豊山派 |
創建時代 | 天武天皇時代(673〜686) |
文化財 | 【国指定重要文化財】梵鐘
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ご由緒 | 正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)と言います。お寺の歴史は古く、天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立しました。その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されました。
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体験 | 祈祷お祓いお宮参り七五三食事・カフェ御朱印お守り重要文化財人形供養武将・サムライ有名人のお墓札所・七福神巡り |
概要 | 野間大坊(のまだいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。 |
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歴史 | 歴史[編集] 概要[編集] 『大御堂寺縁起』には、天武天皇の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられる。その後空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれる。 寺に伝わる室町時代の天文3年(1534年)の再興勧進帳に記載された縁起によると、承暦年間(1077年~1081年)に白河天皇の勅願寺となり、このとき「大御堂寺」と称せられたという。以上の伝承には確証はなく、創建の正確な時期等は未詳である。 『吾妻鏡』文治2年閏7月22日(1186年9月7日)条には、義朝の墓に関する次のような記述がある。平康頼(『平家物語』の「鹿ケ谷の陰謀」の登場...Wikipediaで続きを読む |
アクセス | 交通アクセス[編集] 名鉄知多新線 野間駅から徒歩で約8分。 |
引用元情報 | 「野間大坊」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%87%8E%E9%96%93%E5%A4%A7%E5%9D%8A&oldid=101834826 |
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