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とよかわかく みょうごんじ|曹洞宗円福山

豊川閣 妙厳寺の御由緒・歴史
愛知県 豊川稲荷駅

ご本尊千手観音
ご由緒

寒巖禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。
見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。「われはこれなり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」この出来事に深く感激された寒巖禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。
その後六代目のお弟子・東海義易禅師がここ豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巖禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巖禅師御自作の吒枳尼真天像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元(1441)年旧暦11月22日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。
時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は當山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巖禅師の勝躅を護持し、豊川吒枳尼真天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。以後、豊川吒枳尼真天は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。

歴史
沿革[編集] 嘉吉元年(1441年)、曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易によって創建[1]。室町時代末期、今川義元が伽藍を整備した。当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転した。現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である。 開山[編集] 開祖の東海義易は幼名を岩千代といい、9歳の時に、曹洞宗法王派5世の華蔵義曇の元で仏門に入った。そして、東海地方における法王派の拠点となる普済寺(浜松市)で修行し[注釈 1]、その後、諸国の行脚に入った。永享11年(1439年)、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2...Wikipediaで続きを読む
引用元情報豊川稲荷」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E7%A8%B2%E8%8D%B7&oldid=102246125

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