日蓮宗
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一乗寺さんのお隣にあります。
本堂は4階ですと上がらせていただきました。これから何かが行われるのか、椅子の上に太鼓?のような物がいくつも置かれていました。
写真はすっかり忘れていました。
🌼真淨寺(しんじょうじ)に参拝させて頂きました🙏🌸当寺院は、妙光山と号します。真淨寺は、向學院日養(明暦元年1655年寂)が開山となり、正保元年(1645)創建したといいます。🍁港区麻布台の妙光山真浄寺には、昭和13年まで長生きした最後の新選組隊士・池田七三郎(本名・稗田利八)の墓があります。
池田七三郎(稗田利八)は回顧録「新選組聞書」という新選組の貴重な資料を残し、フィクションでも「壬生義士伝」(浅田次郎著)で語り部の一人として登場しています。
ここでは真浄寺と池田七三郎(稗田利八)の墓があり真浄寺の本堂左脇から墓地に入ります。
まっすぐ奥に進み、突き当ったらその突き当った区画の裏側に回り込みます。
入ってきた方向に向き直り、向かって右から2番目の墓が、稗田家(池田七三郎)の墓です。「池田七三郎」(いけだしちさぶろう)は新選組で使っていた名前で、本名は「稗田利八」(ひえだりはち)です。
中央の「稗田家之墓」に合葬されています。
右横に稗田利八の名が載る墓誌、左横には稗田利八の古い小さな墓石があります。☘️池田七三郎(稗田利八)とは本名は稗田利八(ひえだりはち)です。嘉永2年11月13日(1849年12月27日)、現在の千葉県東金市にあった田間村の商人の家に生まれます。
元治元年(1865年)17歳の時、江戸飯田町(現在の千代田区富士見1丁目)にあった天野静一郎道場で一刀流を学び慶応3年(1867年)、19歳の時、土方歳三の隊士募集に応じて新選組に入ります。
🌺この時、変名として「池田七三郎」(いけだしちさぶろう)の名を使いました。鳥羽伏見の戦いや甲陽鎮撫隊に参加し、重傷を負いますが生き延びます。会津戦争中、斎藤一とともに如来堂で激戦を繰り広げます。
🪷新選組隊士・中島登が、如来堂の隊士は全滅したと誤認して記録したことから、戦死したと思われていましたが、実は如来堂から落ち延びた7名の中にいました。
🌱池田七三郎(稗田利八)は落ち延びた後、他数名の隊士とともに水戸の佐幕派・水戸諸生党と合流し、新政府軍にゲリラ戦を仕掛け、水戸城を襲い、敗退します。
🌷霞ヶ浦から利根川を船で下って銚子へ逃げようとしましたが、銚子にいた高崎藩兵に囲まれて降伏。
他の隊士ともども、「新選組」とは言わずに「江戸を脱走した」で通し、江戸に護送され、明治2年まで謹慎生活を送った後釈放されました。その後は商人として暮らし、昭和4年に子母沢寛の取材を受け、新選組に関する貴重な証言を多く残しました。
☘️昭和13年(1938年)1月16日、90歳で亡くなります。
新選組隊士の中で最も後の時代まで長生きした人物で、新選組最後の生き残りと言われました。
🍁所在地: 東京都港区麻布台2丁目3−18
一乗寺さん並び(飯倉熊野神社から向かうと、手前です)のお寺です。外観がビルのような近代的な作りで、道路に面して扉が閉まっているので、ちょっと躊躇しましたが、思い切ってインターホンを鳴らしてみたところ、入口を開けて下さり、ご住職が外手中のため書くものがいません…とのこと。扉を開けてとても丁寧な対応で直接お話ししていただいたので、図々しくも、もし宜しければお参りだけ出来ますか?伺い、エレベーターで上階になりますがよろしければどうぞお参り下さい…と快くお参りさせていただきました。
とても綺麗な御本堂含め、中は、木の使い方がとても素敵で、新しい木の匂いがしました。
6、7年前に建て替えられたそうですが、近代的な外観とイメージが違い、木の温もりのあるお寺でした。上げていただいたお礼をおつたえして失礼しましたが、ちょっと勇気を出してみて(普段、このまま帰ること、多いので)良かったです。
中は、写真は撮っていません。
名称 | 真浄寺 |
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御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 03-3583-0678 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
宗旨・宗派 | 日蓮宗 |
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