あけちみつひでのつか
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花散里さんが投稿していた明智光秀公首塚へ。言わずと知れた本能寺の変のあと、山崎の合戦で敗れた光秀公の首が三条河原でさらされ、埋められた地に塚が建てられたそう。もともとは刑場だった粟田口の方に塚もあったらしいのだが、首塚は民家の影に隠れ、周りに木が生い茂り、放置状態になっていたという。木を勝手に切るとたたりがあると信じられていたからだそう。困った町の人たちは、光秀の子孫とされた能楽師の明田利右衛門(または理右衛門)に塚を無償で譲ることにした。「丹波の出身」だった利右衛門は申し入れを承諾。木を切り、塚の石塔を東山区梅宮町にあった自宅に移したという。たたりが起きなかったので、「逆にご利益をもたらす存在として信仰されるようになった」らしい。明治に成り、京都府は「逆罪人」の光秀の首をまつり、人々を惑わすものとみなし塚の撤去を命じました。しかし、しばらくして首塚は再興されたとのこと😲今の首塚を守っているのは、住民らでつくる「梅光会」でその中心人物の一人に首塚の路地の入り口に店を構える和菓子屋「餅寅(もちとら)」さんがおられます。 江戸末期の創業と伝わる店の名物は「光秀饅頭」とのことで食べてみたかったのですが時間ゆえか閉まってました😭残念。というわけでお詣りさせていただきました。今年の要潤光秀はすでにいい人像が出ておりますがいかに?
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冬の小旅・番外編
明智光秀公の塚と伝わる史跡にお参りしました。
謀反人として有名ですが、武将でありながら和歌や茶道を嗜む教養人・文化人、家臣や領民から慕われ、側室を1人も持たなかったという誠実な人柄に、大河ドラマ「麒麟が来る」よりずっと前から戦国では1番好きな武将でした。
京都の街なかの住宅街にひっそり佇む御堂。
京都に来ると、たびたびお参りしています。
↓は御堂のそばの案内板に書かれていたものです。
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀は本能寺に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させた。しかし光秀は、備中高松城から引き上げてきた羽柴秀吉と、十三日に山崎で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れる。そしてその途中、小栗栖の竹藪で地元の農民に襲われて重症を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれている。
光秀の首は家臣によって隠されたといわれるが、吉田兼見という公家が記した日記「兼見卿記」によると、光秀の首は十五日までに発見されている。十八日からは、粟田口で重臣の首とともに晒された。晒されたのは数日で、二十二日・二十三日には近くに埋め、塚を築いたことも記されている。
実際、「雍州府志」や「京都名所図会」など、江戸時代の京都について記された地誌類には、その塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されている。多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえる。
その後、江戸時代中期の安永〜天明初年頃に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきた。以来、この地が明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首も埋められたと伝えられている。
また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚がある。
写真












明智光秀の塚の情報
| 住所 | 京都府東山区梅宮町474-23 |
|---|---|
| 行き方 | 地下鉄東西線「東山駅」1番出口より徒歩3分 |
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明智光秀の塚の基本情報
| 名称 | 明智光秀の塚 |
|---|---|
| 読み方 | あけちみつひでのつか |
| 通称 | 明智明神 |
詳細情報
| ご本尊 | 明智光秀公 |
|---|---|
| 宗旨・宗派 | - |
| ご由緒 | 天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀は本能寺に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させた。しかし光秀は、備中高松城から引き上げてきた羽柴秀吉と、十三日に山崎で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れる。そしてその途中、小栗栖の竹藪で地元の農民に襲われて重症を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれている。
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