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つばきだじゅういちめんかんのんふくちどう

椿田十一面観音福地堂
栃木県 田島駅

椿田十一面観音福地堂について

唐沢山城の南端の出城、椿田城跡に立つ観音堂。
歴代城主 福地家の守り本尊。
現在も福地家の子孫が住むが、城跡の見学・参拝は可能。

写真

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椿田十一面観音福地堂の基本情報

住所

栃木県佐野市船津川町2368-3

行き方
アクセスを詳しく見る
名称

椿田十一面観音福地堂

読み方

つばきだじゅういちめんかんのんふくちどう

通称

赤松福地家守護神

ホームページhttps://www.city.sano.lg.jp/soshikiichiran/kyouiku/bunkazaika/gyomuannai/3/4870.html

詳細情報

ご本尊《本尊》十一面観世音菩薩
宗旨・宗派
創建時代

応永年間(1467~8年)

開山・開基

福地家

文化財

椿田城跡(佐野市指定重要文化財)

ご由緒

赤松福地家代々の守護神として伝わる十一面観音は、一寸六分(約5.3cm)の黄金造りのもので、遠祖 具平親王(人皇第六十二代村上天皇第七皇子)より、秀房(赤松氏祖)、則景、能久(福知山城主 福地家祖)と受け継がれた。何時の頃よりか、御本尊を兜の前立てに納め、数多の合戦に出陣した。
第七代丹波守直久は、西国の乱(応永四年五月十八日)に際し、備中戸岩の城攻めの時、敵兵の放った矢を兜に受けたけれど、矢の根が折れて裏まで貫通せず無事であった。
また第二十代出羽守寧久(後に昌寧と改む)は、天正十一年正月朔の未明、唐沢山城々主 佐野宗綱公に従って彦間須花坂の戦いに臨んだ時、敵兵の放った鉄砲の弾丸が兜に当たったが、弾丸は微塵に砕け散っただけで、少しの傷も受けなかったという。
これも十一面観音の新例の加護によるものと語り伝えられている。因みに寧久の法名は「霊性院殿一弾全無大居士」になっている。
この御本尊を厨子に納め、赤松福地一族の守護神として堂宇を応永年間(1467~8)に建立したのが、椿田十一面観音福地堂である。(案内板より)
【椿田城跡】
椿田城跡は、側には才川が流れ、現在は用水路となる城跡を長方形状にめぐる水堀が城の内堀だったと考えられる。
内堀をめぐらす内郭と、その周囲に城地を構えていたと考えられ、内郭の規模は、東西約65メートル、南北約100メートルになり、堀の幅は、場所によって多少異なるが概ね2メートル程、深さは約1メートル。
当地は、佐野小太郎盛綱のときに、客将として招かれた福地丹波守仲久が初めて居住し、その後、仲久から四代後になる福地出羽守寧久が、永禄3年(1560)に当城を築いた。当城は唐沢山城の南端の出城として構築され、川越・忍(おし)・館林の三城の抑えとされた。
佐野氏の改易とともに廃城となり、それ以後は福地氏が名主として代々当地に居住した。
福地家には、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を攻撃する際、その臣加藤清正からの要請を受けて、天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)が、福地氏を含む佐野家の重臣5名に命じて提出させた絵図の控えも残っており、市の指定有形文化財として佐野市立郷土博物館に保管されている。

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