はだじんじゃ
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お参りしました🙏御朱印の朱印は坂本龍馬に世界を教えた土佐の絵師河田子龍先生の作で歴史的にも価値のあるものだそう😳お祖父様(だったかな)のもとにおふたりがよく訪ねて来られていたそうです。宮司さんが面白おかしく逸話を話されてくださいました☺️幕末好きの方は行く価値ありあり‼️
境内舎 西宮神社⛩️
宮司さまが見せてくれたチラシ
雪蹊寺の境内を出てすぐの所に鎮座されています。
明治時代の廃仏毀釈により 明治3年(1870年)に雪蹊寺が廃寺となり 翌年 本堂跡に当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体として建立された神社です。
元親の弟の子孫である島弥九郎与助らが 高知藩庁に創建を請願し 旧雪蹊寺本堂跡に明治4年(1871年)4月7日(新暦5月25日)に建立されたとのことでした。
社名は 長宗我部氏が中国秦王朝の始皇帝の子孫とされる秦河勝の後裔と称したことによります。
主神は長宗我部元親公之霊ですが 配神が秦家累代の霊・家臣忠死者となっています。
家臣もお祀りするあたりは さすが子孫が建立されただけのことはあります。
正面石鳥居
けっこう古い狛犬
二の鳥居はありませんでした
拝所
内陣と本殿
社務所
長曾我部元親公慰霊の碑
社殿を横から見て
戸次川の戦い 戦没者名標 とあります
家臣を祀っているのでしょうか
歴史
長宗我部氏の菩提寺である雪蹊寺が明治三年廃寺となったため、子孫にあたる島弥九郎等が奔放。同寺に安置された元親公の御木像や戸次川戦々没者の霊璽板等を御神体として譲りうけ、長浜古城の麓にあるしたのが当社である。主神の元親公は前の土佐太守で、慶長四年五月山城の伏見邸に薨去し雪蹊寺を菩提寺と定められた。山内家入府後は当院は寺領百石香奠として、その後寛政九年には二百年忌法要が、また、嘉永元年には二五〇年忌法要が雪蹊寺で行われた。その後明治三十二年には当社で元親公の三五〇年忌祭が行われて、昭和三年には正三位追贈され、昭和十八年八月、県社に昇格、昭和二十七年宗教法人となり、現在に至っている。
当社には天正十四年十二月十二日、豊臣氏の島津征伐に際し、先陣として豊後国(大分県)戸次川で戦い戦死した信親公主従の名を刻した霊板が奉安されている。土佐物語によると、この時の長宗我部勢の戦没者は二七二七名といわれている。なお当社々宝の元親公画像(重文)は県立郷土文化会館に寄託、保管されている。
名称 | 秦神社 |
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読み方 | はだじんじゃ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 088-841-2464(若宮八幡宮) お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://wakamiya-kochi.com/hada.html |
詳細情報
ご祭神 | 《主》長宗我部元親,《配》長宗我部信親,長宗我部盛親,長宗我部盛家臣忠死の徒 |
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ご由緒 | 長宗我部氏の菩提寺である雪蹊寺が明治三年廃寺となったため、子孫にあたる島弥九郎等が奔放。同寺に安置された元親公の御木像や戸次川戦々没者の霊璽板等を御神体として譲りうけ、長浜古城の麓にあるしたのが当社である。主神の元親公は前の土佐太守で、慶長四年五月山城の伏見邸に薨去し雪蹊寺を菩提寺と定められた。山内家入府後は当院は寺領百石香奠として、その後寛政九年には二百年忌法要が、また、嘉永元年には二五〇年忌法要が雪蹊寺で行われた。その後明治三十二年には当社で元親公の三五〇年忌祭が行われて、昭和三年には正三位追贈され、昭和十八年八月、県社に昇格、昭和二十七年宗教法人となり、現在に至っている。
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