にほんだいいちくまのじんじゃ
日本第一熊野神社岡山県 植松駅
定休日:火・水曜日
御朱印 | |||
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限定 | |||
郵送対応 | |||
御朱印帳 | 普通サイズ(11×16)、大サイズ(12×18) 全国熊野会 | ||
授与品のネット対応 | https://kumano-jinjya.com/news/5290.html | ||
駐車場 | 境内にあり(50台駐車可能) |
奈良時代に修験道の開祖として有名な役小角さんがその修行と宗教観から民衆を惑わすとして伊豆に配流となり、その弟子たちが浄域を求めて逃れた地に立つ神社です。その後聖武天皇さまの命により児島一円が御神領として寄進され、その関係地として弟子たちが分社を行っていたこともあり熊野本宮大社が「日本第一」の称号を与えられたのに伴って「日本第一熊野十二社権現宮」と呼ばれています。
《鳥居と社号碑》
「日本第一」がかっこいいですね。
《後鳥羽上皇宝塔》
児島には承久の乱の後、後鳥羽上皇さまの第四子である頼仁親王さまが配流となり、当時衰微していた当社を復興したそうです。ちなみに後鳥羽上皇さまは隠岐島に流されています。
《手水舎》
水は流れています。洗ひつるここも…(略)
手水にいる亀がどう見てもガメr(🤛
《三重の塔》
がっつり建物が残っているのは珍しいですね。ちなみに神仏分離後の寺院は南方にある五流尊瀧院です。
《祈祷殿》
拝殿にあたる建物がないため、こちらで祈祷が行われるようです。
《第四・五・六殿》
現在四〜六殿が修繕工事中です。
《第二殿》
応仁の乱にて建物は全焼し、唯一その直後に再建された第二殿のみが国の重要文化財に指定されています。よく見たらネットにある写真より社殿の塗り直しが行われているため色合いがはっきりしてますね。
《第一殿》
《第三殿》
社殿は熊野本宮大社と同じ建築様式の建物が同じ配置で建てられています。
《八尾羅宮》
👁チェックポイント‼️
児島が島だったときに狐による農作物の被害が多く、熊野神社に祈願したところ神社の西側に祠を建てたら荒らさなくなるとお告げがあり、建てられたと伝わります。そのお礼に狐たちは当社の守り動物になったとされています。
御神徳がまた特殊で、火災除け、嫁いびり防止、いじめ除け、限界破り、八方破りなどがあります。
《本殿》
ここで関連がありそうなのが、この児島に熊野三山を祀る際に、本宮大社が当社、今は不詳な新宮、那智にあたるのが現在の由加神社本宮とされています。そして由加神社の神使は狐とされており、その根源はこの八尾羅宮に由来するのかもしれませんね。
《授与所》
無人でも稼働するようになっています。
《お守り類》
ものすごいピンポイントな御守りが並んでいます。
《御朱印帳》
全国熊野会…やはりあるのか…!
【令和四年八月二十九日参拝】日本第一熊野神社
西暦六三四年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。
紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。
ところが、役行者が民衆を惑わすという罪で伊豆大島に流され、高弟たちは紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じて瀬戸内海に逃れ、四国九州に浄域を求めた後、児島の柘榴浜に上陸し、熊野道といわれている山道を通り、大宝元年(701)三月三日、福岡の里と呼ばれていたこの地に鎮座祭典をし、それが、現在の春のお祭り(五月十八・十九日)です。
天平十二年(740)、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。
現在地に社殿を建立したのが始まりです。
孝謙天皇紀(749-758)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、当社もその号を称することになりました。
承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、その第四皇子で、鎌倉幕府第四将軍になる候補であった冷泉宮頼仁親王は、この地に配流されました。
また、弟の桜井宮覚仁親王は乱を恐れ、この地に赴任し尊瀧院の住職となりました。
公卿山伏といわれる由縁です。
応仁の乱(1469)で開幕となった戦国時代の兵火のため、社殿をことごとく焼失してしまいました。
明応元年(1492年)、社殿は天誉長老により再建されました。
国の重要文化財に指定されている第二殿が、その時建立されたものだといわれています。
以後、復興を見ますが、次第に社領は減少し、中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けましたが、児島一円の領地はわずか三ヵ村に減ってしまいます。
西暦1600年代半ば、池田光政公により、吉備津彦神社の大守家から神官が赴任され、祭祀を専らにさせるなど、あつい保護の下に明治に至りました。
慶応四年三月(1868)、神仏分離(神仏判然令)により、現在は、宗教法人熊野神社、宗教法人修験道五流尊瀧院と呼ばれています。
平成十五年(2003)九月二十一日、所有の熊野神社長床拝殿を焼失しましたが、五流尊瀧院の寛大な配慮により、再度、氏子や近在の崇敬者により拝殿が再建されました。
熊野神社御祭神
主祭神 伊邪那美命イザナミノミコト
伊邪那岐命イザナギノミコト
速玉男命ハヤタマノオノミコト
事解男命コトサカノオノミコト
天照大神アマテラスオオミカミ
忍穂耳命オシホミミノミコト
瓊々杵命ニニギノミコト
彦火々出見命ヒコホホデミノミコト
葺不合命ウガヤフキアエズノミコト
稚産霊命ワカムスビノミコト
埴山比賣命ハニヤマヒメノミコト
罔象女命ミズハノメノミコト
軻遇突智命カグツチノミコト
境内神社御祭神
火産霊命
素戔鳴命
家津御子大神
大綿津見神
市杵島姫命
倉稲魂命
〜日本第一熊野神社HPより〜
日本第一熊野神社で頂ける御朱印は、日本第一熊野神社と八尾羅宮のニ種類です。
狛犬さん
入口
入り口付近の手水舎
亀さんがいます🐢
前からこの子に会いたくて❤️来れて良かったです🥰
名残惜しいけど、先に進みます❗
すると、狛犬さんと、立派な社殿が見えてきました❗
備前焼の狛犬さんたち
すぐ近くには拝殿があります。
地元の方から聞いた話によると…赤い第二殿からお参りし→第一殿→第三殿と進んで、裏のお宮を順番にぐるりとお参りして→また表に出たら、第六殿→第五殿→第四殿と順にお参りして、最後にまた第二殿でお参りするそうです。
↑昔のお殿様は、そうやってお参りしてたらしいです☺️
では第二殿から…
色鮮やかで✨キレイな社殿ですね✨
第一殿
第二殿
裏の八尾羅宮へ…
八尾羅宮はっぴらぐうは昔から商売繁盛、いじめ除けの神として信仰されて来ました。
是非一度ご参拝ください。(毎月月例祭を執り行っております。)
解説文より
霊神たるにより寛文七年五月藩主池田光政公が稲川長秀、西村伯明の奉行に命じ勧請建立、其の後再建したものである。
創立は不詳なれど古老によると児島が島だった頃、狐などによる農作物の被害が多大で氏子の人達が熊野神社に祈願したところ、神社の西に祠を建てれば、狐達ここに集いて田を荒らさなくなるとのお告げありて、現在の八尾羅宮はっぴらぐうを建立す。
ただちに被害少なくなり、集まりし狐達はお礼に熊野神社の護り動物となる。
氏子の人農作物は豊かになり護国豊穣の神と崇める。
後に火災除け、嫁いびり防止、との信仰深く多くの人集まる。
ところが正徳二年に岡山藩主池田綱政は、お蔭多きは人心を惑わすものとし、大多羅寄宮に移転、統合す。
しばし信仰できなかったものの、明治時代に再び現地に帰り祀られる。
現在は金運増大、資格・入学合格成就、また限界打破、八方破り、いじめ除けの神様として遠方からも参詣の人有り。
〜日本第一熊野神社HPより〜
拝殿です。
㊤八尾羅宮の額
㊥拝殿に飾られていた狐の絵🦊
㊦㊧絵馬
㊦㊨拝殿前床にありました。
八尾羅宮本殿
↓八尾羅宮横の足場から、社殿裏を見渡せるのを発見❗一旦お参りから離脱して、社殿裏を見学。
第三殿
第一殿
第二殿
第五殿・第四殿
第六殿
しっかりと裏側まで見させて頂きました😁
足場を降りて、お参りに戻ります。
社殿の裏側にある境内社
近くに池もあり、鯉が泳いでました🐟
池に赤トンボも遊びに来てました😲
第六殿
第五殿
第四殿
第二殿に戻って来たので、再度お参りして、お参り終了です😄
お守り・御朱印は、神社の定休日でも、無人の授与所で購入できます。
うっかり定休日に行ってしまいましたが、助かりました😁💦
お守りの種類が細かいですね。
頭の先から足の先までありそう😲
八尾羅宮の割札とお守り
↑絵馬を購入する方は、絵柄が素敵過ぎて、どれにしようか迷うでしょうね☺️
倉敷帆布の御朱印帳
↑こんな風に書き置きを置いて下さってました。
もちろんニ種類の御朱印両方とも購入させて頂きました🥰
石鹸もあったので、妹へのお土産と自宅用に購入❤️
両替機も備え付けられていたので、丁度の金額でお支払いできて、便利でした😄
外に出ると、近くの五流尊瀧院の三重塔から、カラスの鳴き声が…
見えないとは思いますが、なんと塔の天辺で鳴いてました。
そして、こちらの上を旋回してました😄
カラスちゃん、これを見せたかったんやね🥰
ありがとう❗ちゃんとカメラで撮れましたよ📸
境内の百合ももう終わりかけでしたが、キレイに咲いていて癒やされました🥰
素敵なお宮さんなので、またゆっくりとお参りしたいと思います😄
西暦六三四年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。
ところが、役行者が民衆を惑わすという罪で伊豆大島に流され、高弟たちは紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じて瀬戸内海に逃れ、四国九州に浄域を求めた後、児島の柘榴浜に上陸し、熊野道といわれている山道を通り、大宝元年(701)三月三日、福岡の里と呼ばれていたこの地に鎮座祭典をし、それが、現在の春のお祭り(五月十八・十九日)です。
天平十二年(740)、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。現在地に社殿を建立したのが始まりです。
孝謙天皇紀(749-758)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、当社もその号を称することになりました
名称 | 日本第一熊野神社 |
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読み方 | にほんだいいちくまのじんじゃ |
通称 | 日本第一熊野十二社権現宮 |
参拝時間 | 定休日:火・水曜日 |
参拝にかかる時間 | 約15分 |
参拝料 | なし |
トイレ | あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 086-485-0105 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
メールアドレス | mail@kumano-jinjya.com |
ホームページ | https://kumano-jinjya.com/ |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
SNS |
ご祭神 | 伊邪那美命 伊邪那岐命 速玉男命 事解男命 天照大神 忍穂耳命 瓊々杵命 彦火々出見命 葺不合命 稚産霊命 埴山比賣命 罔象女命 軻遇突智命 |
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ご神体 | 不詳 |
創建時代 | 大宝元年(701年) |
創始者 | 役小角の高弟 |
本殿 | 春日造、流造 |
文化財 | 第二殿(国の重要文化財) |
ご由緒 | 西暦六三四年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。
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体験 | 祈祷おみくじお祓いお宮参り絵馬結婚式七五三御朱印お守り重要文化財祭り札所・七福神巡り伝説夏詣 |
概要 | 熊野神社(くまのじんじゃ)は、岡山県倉敷市郷内地区にある熊野神社。「日本第一熊野十二社権現宮」と称する。祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神。社殿は左から第三殿・第一殿・第二殿・第四殿・第五殿・第六殿と並ぶ熊野本宮大社と似た形式を採っている。 |
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アクセス | アクセス[編集] .mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「熊野神社 (倉敷市林)」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%20%28%E5%80%89%E6%95%B7%E5%B8%82%E6%9E%97%29&oldid=102231695 |
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