ぎおうじ
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楽しみ方祇王寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2026年03月08日(日) 01時40分35秒
参拝:2026年2月吉日
祇王寺は京都市右京区にあるお寺です。
こちらは苔庭とモミジの紅葉が有名なお寺です。
小倉山の麓にあり 周りを鬱蒼と木が茂るなか 竹林と苔庭でここだけ開けている感じです。
苔が有名なお寺は数多くあると思いますが こちらは超おススメです。
大覚寺の境外塔頭で 共通拝観券もあります。
門を入ると それはそれは見事な苔庭。
前回は10月に参拝でしたが その時も美しかった。
冬でこれだけきれいなのですから 初夏だとどれだけ美しいことでしょう。
ちょうどお庭の手入れをされていらっしゃって 少しお庭のお話が聞けました。
盆栽(?)が並んでいて それぞれに 一両・十両・百両・千両・万両と札がつけられていたのですが 千両と万両しか知りませんでした。
千と万があれば 一も十も百もあるもんなんですね。
由緒の石板の下に小さな花が。
これはセツブンソウと言うそうです。
節分のころに花をつけることからその名がついたそうですが 花言葉の一つに「人間嫌い」があるそうです。(笑)
美しいお庭を堪能したあとは本堂に上がらせていただきました。
草庵と言ってもいいのかな。
本尊大日如来・祇王・祇女・母刀自・仏御前と平清盛の木像が安置されています。
ネット情報です。
山号は高松山
院号は往生院
宗旨宗派は古義真言宗大覚寺派
寺格は大覚寺境外塔頭
ご本尊は大日如来
開山は伝・良鎮
法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる浄土宗の往生院が そもそもの当寺のもととなっている。
現在当寺が建っているこの地は往生院の旧跡である。
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば 白拍子の祇王(21歳)は平清盛の寵愛を受けていた。
そこに 若い仏御前(17歳)が現れてその座を奪われてしまい清盛の邸を追われた祇王は 妹の祇女(19歳)母の刀自(45歳)とともに尼となった。
それが嵯峨の奥にあった往生院に建てられていた庵であるという。
この後に“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前が旧怨を捨てた祇王母子に加わり 4人で念仏三昧の余生をこの地にて送ったという話が記載されている。
中世以降次第に衰退していった往生院は 明治初年には廃寺となり荒れ果てしまい 残された墓と木像等は旧地頭の大覚寺によって保管された。
その時の大覚寺門跡楠玉諦師は これを惜しんで往生院の再建を計画した。
そこに 1895年(明治28年)に元京都府知事の北垣国道が嵯峨にある自らの別荘から茶室を寄進するとの話があったため 楠玉諦はこれを再建寺院の本堂とし 大覚寺の管理の下 古典故事の旧跡として また尼寺として再興を遂げた。
その際 寺名は新たにこの地にゆかりがあるとされた祇王からとって祇王寺とされ 大覚寺の境外塔頭となった。
以後約7年間は京都の水薬師寺の六条智鏡尼(眞照師)が住職を兼務したが 主に若い尼僧が交代で留守居していたに過ぎず 智鏡尼の他界後は長く住みつく尼もなく衰微し 無住となって再び荒廃した。
1935年(昭和10年)からは東京新橋の元名物芸妓照葉こと高岡智照が庵主・智照尼として入庵し 寺男として寝起きをともにした又従姉弟とともに その復興発展に尽くした。
こちらは苔庭とモミジの紅葉が有名なお寺です。
小倉山の麓にあり 周りを鬱蒼と木が茂るなか 竹林と苔庭でここだけ開けている感じです。
苔が有名なお寺は数多くあると思いますが こちらは超おススメです。
大覚寺の境外塔頭で 共通拝観券もあります。
門を入ると それはそれは見事な苔庭。
前回は10月に参拝でしたが その時も美しかった。
冬でこれだけきれいなのですから 初夏だとどれだけ美しいことでしょう。
ちょうどお庭の手入れをされていらっしゃって 少しお庭のお話が聞けました。
盆栽(?)が並んでいて それぞれに 一両・十両・百両・千両・万両と札がつけられていたのですが 千両と万両しか知りませんでした。
千と万があれば 一も十も百もあるもんなんですね。
由緒の石板の下に小さな花が。
これはセツブンソウと言うそうです。
節分のころに花をつけることからその名がついたそうですが 花言葉の一つに「人間嫌い」があるそうです。(笑)
美しいお庭を堪能したあとは本堂に上がらせていただきました。
草庵と言ってもいいのかな。
本尊大日如来・祇王・祇女・母刀自・仏御前と平清盛の木像が安置されています。
ネット情報です。
山号は高松山
院号は往生院
宗旨宗派は古義真言宗大覚寺派
寺格は大覚寺境外塔頭
ご本尊は大日如来
開山は伝・良鎮
法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる浄土宗の往生院が そもそもの当寺のもととなっている。
現在当寺が建っているこの地は往生院の旧跡である。
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば 白拍子の祇王(21歳)は平清盛の寵愛を受けていた。
そこに 若い仏御前(17歳)が現れてその座を奪われてしまい清盛の邸を追われた祇王は 妹の祇女(19歳)母の刀自(45歳)とともに尼となった。
それが嵯峨の奥にあった往生院に建てられていた庵であるという。
この後に“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前が旧怨を捨てた祇王母子に加わり 4人で念仏三昧の余生をこの地にて送ったという話が記載されている。
中世以降次第に衰退していった往生院は 明治初年には廃寺となり荒れ果てしまい 残された墓と木像等は旧地頭の大覚寺によって保管された。
その時の大覚寺門跡楠玉諦師は これを惜しんで往生院の再建を計画した。
そこに 1895年(明治28年)に元京都府知事の北垣国道が嵯峨にある自らの別荘から茶室を寄進するとの話があったため 楠玉諦はこれを再建寺院の本堂とし 大覚寺の管理の下 古典故事の旧跡として また尼寺として再興を遂げた。
その際 寺名は新たにこの地にゆかりがあるとされた祇王からとって祇王寺とされ 大覚寺の境外塔頭となった。
以後約7年間は京都の水薬師寺の六条智鏡尼(眞照師)が住職を兼務したが 主に若い尼僧が交代で留守居していたに過ぎず 智鏡尼の他界後は長く住みつく尼もなく衰微し 無住となって再び荒廃した。
1935年(昭和10年)からは東京新橋の元名物芸妓照葉こと高岡智照が庵主・智照尼として入庵し 寺男として寝起きをともにした又従姉弟とともに その復興発展に尽くした。

由緒書

嵯峨野らしい石段を上がっていきます

寺号標

ミニ草庵

山門はありません

境内のお庭はすべて苔庭

初夏だったら緑が濃いんだろうなあ

茅葺の門



奥に見えるのが本堂

竹林もあります

一両 十両 百両 千両 万両 こんなにあったんか

由緒

セツブンソウ

手水

本堂

平清盛公 供養塔
すてき
投稿者のプロフィール

くるくるきよせん3250投稿
「すてき」 をくださるみなさま、ありがとうございます。 拙い投稿ですのに、本当に感謝しかありません。 2022年の正月に、ふと思い立って古都の寺社巡りを始めました。 由緒書きを読んだり、お話を伺...もっと読む
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