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空海(弘法大師)は人々のために生きたお坊さん!真言宗の密教や実践方法、最澄との関係まで徹底紹介

最終更新:2019年10月11日公開:2019年09月28日
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「空海って、どんな人物?」
「弘法大師と空海は、同一人物?なぜ名前が2つあるの?」
「うちは真言宗だけど、空海と真言宗のことをよく知らない・・・」

こんにちは、ホトカミ仏教担当の横井です。

今回のテーマは 「空海(弘法大師)」。
全国に約14,000件のお寺がある真言宗の開祖であり、数多くの功績を残したことで知られています。

空海は歴史の教科書には必ず名前が載っている人物です。
最近はマンガ「阿・吽」や映画「空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎」など、物語の題材としても取り上げられ、 日本で最も有名なお坊さんの一人と言っても過言ではないでしょう。

しかし、中学校の歴史の教科書に出てくる空海についての記述はごくわずか・・・ 「空海って名前だけは知ってるけど、いったいどんなお坊さんなの?」と気になったことはないでしょうか。

そこで今回は、 高野山真言宗の僧侶である私が、皆さんに空海のことをご紹介します。

この記事では、 「空海ってどんなお坊さんなの?」という入門編のストーリーから、「仏教の力で人々を救うことに全力を尽くした生涯」「空海が開いた真言宗とは何か?」「空海の教えを日常で実践する方法」という詳しい知識まで紹介します。

さらに、 日本全国にある空海ゆかりのお寺もご紹介します!

それでは、まずは空海とはどんな人物なのか、基本を学びましょう。

執筆
ホトカミ編集部仏教担当

横井 郷


愛知県出身の仏教系大学生、高野山高校卒。
一般家庭出身だが、さまざまなご縁により仏教に興味を持ち、あらゆる視点から仏教の可能性を追求している。
好きな仏さまは蔵王権現(ざおうごんげん)。

    目次

  1. 空海は平安時代に真言宗を開いたお坊さん
  2. 空海が弘法大師になるまで
  3. 空海が開いた真言宗は、生きたまま仏になれる「密教」を教えとする宗派
  4. 空海の足跡をたどる、ゆかりのお寺5選
  5. おわりに

空海は平安時代に真言宗を開いたお坊さん

空海とは、 平安時代に真言宗を開き、高野山金剛峯寺を開いたお坊さんです。
唐(現在の中国)より持ち帰った密教を日本で広め、日本各地で人々を救うための活動をしました。

天皇から贈られた尊称(尊い呼び名)である、 「弘法大師(こうぼうだいし)」という名前でも知られています。 空海と弘法大師は同じ人物のことを指します。

お寺などで弘法大師という名前を見かけたら、空海さんのことなんだなと思い出してくださいね。
この記事では、「空海」と統一して表記します。

また親しみを込めて 「お大師様」と呼ぶこともあります。
空海が開いた真言宗は、今では14,000件ほどのお寺があり、日本中で信仰されています。

「弘法筆を選ばず(こうぼうふでをえらばず)」(名人なら、どんな道具でも使いこなせる)ということわざが残るように、書の達人として名前を残しています。

比叡山延暦寺を開いた最澄に宛てて空海が書いた手紙である「風信帖(ふうしんじょう)」は国宝に指定されており、今でも書道のお手本とされています。

さらに空海は、地元の四国で人々を救うために尽力し、日本最大のため池である満濃池(まんのういけ)を唐から持ち帰った最新の土木技術を使い、修復しました。

また、四国八十八ヶ所の霊場を開き、今では多くの人がお遍路巡りをするようになりました。
お遍路についてさらに知りたい人はコチラの記事もご覧ください。
お遍路に行こう!初心者でも安心、四国八十八ヶ所の準備から歩き方まで紹介

ちなみに、空海の生誕地である香川県の名産、讃岐うどんの作り方は、空海が唐から持ち帰ったという説もあるんですよ。

私たちが当たり前のように使っている曜日の概念や、アイウエオ順の並べ方も空海が唐から持ち帰ったという説もあります。

また、日本最初の私立学校である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創立し、貴族だけではなく、誰でも学問に触れることができる環境を整備しました。

そんな功績がたくさんある空海は、いったいどのような生涯を送ってきたのでしょうか?次に空海の生涯をご紹介します。

空海が弘法大師になるまで

まずは、空海の生涯について、まとめました。
唐で密教を学び、日本で人々のために尽くした空海について、要点をみていきましょう。

    空海の生涯のまとめ
    ・774年(宝亀五年)6月15日に、讃岐国(現在の香川県)で誕生
    ・7歳の頃、天女に助けられる不思議な体験をする(捨身誓願)
    ・18歳の頃、大学に入学するも、お坊さんを志して山や野で修行の日々を送る
    ・室戸岬(高知県)で仏様と一体になる不思議な体験をする。これを機に「空海」と名乗る
    ・密教を学ぶために、唐(中国)へ遣唐使として留学
    ・唐の高僧、恵果より密教を学び、わずか2年あまりで帰国
    ・密教を日本に持ち帰り最澄に伝授するがのちに方向性の違いで最澄とは決別してしまう
    ・満濃池の修復など、日本で人々に役立つための活動をする
    ・高野山を開創し、密教の修行をするための道場とする
    ・835年(承和二年)3月21日、62歳で入定
    ・921年(延喜二十一年)醍醐天皇より「弘法大師」の名前を贈られる

それでは、空海が真言宗を開き、弘法大師と呼ばれるまでをみていきましょう。

真魚(まお)と呼ばれた空海は、幼い頃から仏様とご縁があった

空海は、774年(宝亀五年)6月15日に、讃岐国(現在の香川県)で誕生しました。

父は讃岐国の豪族である佐伯 善通(さえき よしみち)、母は玉依御前(たまよりごぜん)で、生まれた時の名前は「真魚(まお)」といいました。

この記事では、誕生してお坊さんになるまでを「真魚(まお)」、お坊さんになったあとを「空海」と表記します。

真魚は幼少期より、まわりの大人たちから「貴物(とうともの)」と呼ばれていました。貴物とは、天才という意味の言葉です。

幼少期の頃から漢文を読みこなし、学問に優れていたそうです。また、村の子供たちを集め、泥で仏像を作り、拝んでいました。幼少期から仏教の信仰に篤い子供だったことが伺えます。

7歳のときには、断崖絶壁に登り、
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
と誓い、なんと、崖から飛び降りました。
すると、不思議なことに空から天女が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。

これが、最初の空海伝説と言われる、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」です。
今ではその場所は、捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、お遍路の霊場にもなっています。

大学を中退、エリートである役人の道を捨て仏道へ

母方の叔父である阿刀大足(あとのおおたり)に才能を見抜かれた真魚は、エリートの道である役人になることを目指します。

15歳の頃から本格的な勉強をはじめ、18歳になると都にある国に一つだけの大学に入り、役人になるための勉強をします。
大学に入った真魚は必死に勉強しますが、役人になることが本当に人を救うことになるのだろうか・・・とずっと疑問に思っていました。

そこで、ときおり大学を抜け出し、山にこもって修行をしていました。
そんなあるとき、一人のお坊さんから「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」と呼ばれる修行を授けられます。

この修行は、仏様の真言(呪文)を50日間で100万回唱えると、記憶力を高められ、さとりに近づける力を得られるという修行です。
50日間で100万回唱えるとは、つまり1日になんと2万回。朝から夜まで、ずっと唱え続ける厳しい修行です。
真魚は、故郷の四国を巡りながら、来る日も来る日もこの修行を続けていました。

そして、土佐国(現在の高知県)の室戸岬(むろとみさき)で修行しているとき、仏様を表す明星が口の中に飛び込んできます。
この仏様と一体になる、不思議な体験をした真魚はお坊さんとして生きることを決意し、このときの室戸岬から見えた空と海の景色をみて、自らの名前を「空海」と名乗ることにしました。

大学を辞めてお坊さんとして生きることを決意した空海は、当然実家から猛反対されます。
そこで、大学で勉強する儒教や道教を、仏教と比較し、仏教の方が優れているということを記した出家を宣言した書、『三教指帰(さんごうしいき)』を執筆します。

三教指帰を親族に読んでもらい、出家を認めてもらった空海は、虚空蔵求聞持法で得た不思議な体験の正体を探し求めるようになります。

唐に渡り、最新の仏教「密教」を学ぶ

過酷な修行を達成した空海は、「仏様と一体になったあの体験はなんだったんだろう・・・」と、さらに修行を続けます。

そして、様々なお経を学ぶうちに、『大日経(だいにちきょう)』というお経に出会います。これは当時、最新の仏教であった「密教(みっきょう)」のお経でした。

この当時、まだ密教の教えは日本に断片的にしかなく、密教を学ぶためには唐(現在の中国)に行く必要がありました。

唐に渡る船に乗るためには、日本からの正式な使節である「遣唐使(けんとうし)」になるしか方法はありませんでした。お坊さんとして遣唐使になるためには、国家公認のお坊さんにならなくてはいけません。

実は、空海が出家してから唐に渡るまでの足跡は、はっきりとした記録が残っていません。
空海はこの間に経典を勉強し、正式なお坊さんになるための手続きや、唐に行くための費用を溜めていたのではないか、と考えられています。

空海は、大仏さんで有名な奈良の東大寺で、国から認められたお坊さんになるために受戒(じゅかい)という儀式を終え、いよいよ唐に出発します。

この遣唐使の一行には、のちに比叡山(滋賀県)で天台宗を開くことになる最澄も一緒に乗っていました。

このときの最澄は「還学生(げんがくしょう)」という身分で、留学期間は2年と短く、さらに国家から支援を受けることができる、日本を代表するお坊さんとしての派遣でした。

一方無名だった空海の身分は「留学生(るがくしょう)」といい、留学期間はなんと20年、しかも自費での渡航となりました。

4隻の船団のうち、空海は第1船、最澄は第2船に乗船し、唐を目指します。 しかし、途中で大嵐に遭遇し、第3船と第4船は遭難、最澄の乗る第2船は目的地に到達しますが、空海の乗る第1船は目的地よりはるか南の福州(ふくしゅう、現在の福建省のあたり)という場所に漂流してしまいます。

福州の役人は、ボロボロになった船と遣唐使の一行を見て、海賊の船ではないかと疑い、空海らは50日間港にて拘留されます。

日本からの正式な使節であることを証明するために、空海が役人に向けて手紙を書きました。
その手紙を見た役人は、書の素晴らしさに感銘を受け、海賊にはこの手紙は書けないだろうとして正式な遣唐使の一行と認め、上陸を許可します。

唐に上陸した空海は、都がある長安に向かいます。そこで、密教の全てを学ぶべく、様々な勉強をします。
そして、青龍寺(しょうりゅうじ)の「恵果(けいか)」という師に出会います。

恵果は空海に会うとすぐに彼の才能を見抜き、すぐに密教の教えを伝える儀式である「伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」を授けました。

このときに空海は、恵果より「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名前を授かります。
そして、恵果は空海に密教の全てを授け、「密教を日本に持ち帰り、全ての人々の幸せのために教えを広めて欲しい」と伝えると、空海に教えを伝え終えたことを安堵するかのように亡くなりました。

帰国後、唐から持ち帰った密教を日本に広める

恵果の遺言を聞いて、空海は日本へ帰ることを決意します。唐の皇帝に願い出て帰国が許された空海は、帰国直前に三鈷杵(さんこしょ)という宝具を、密教を伝えるのにふさわしい土地を指し示せと言って投げました。

すると、不思議なことに、紫色の雲に乗って海の彼方、日本の方角へと飛んで行きました。

こうして日本に帰ってきた空海は、朝廷に中国で学んだことをまとめた『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』を提出します。
しかし、すぐに都に入ることは許されませんでした。理由は、本来20年間のはずである留学期間を、わずか2年間あまりで切り上げて帰ってきてしまったからと考えられます。

3年ほど九州や大阪で滞在した空海は、ようやく都へ入ることが許されると、本格的に日本で密教を布教し始めます。
そんな空海が都に帰ってくることを心待ちにしていたのが、同時に唐へと渡った最澄です。

最澄は唐で天台宗の教えを学び、空海より先に日本へ帰国していました。 唐で天台宗の教えを学ぶなかで、最澄は密教についても学んでいました。しかし、最澄が学んだ密教は不完全なもので、そのことは最澄もよく理解していました。

そのため、本格的に密教を学びたいと思っていたところに、唐で密教を完全にマスターした空海が帰ってきたのです。

最澄は空海に密教を教えて欲しいと依頼し、それを機に空海と最澄との交流が始まりました。そして、空海を師、最澄を弟子として密教を教えます。

しかし、最澄は比叡山を守らなければいけない都合、代わりに学ばせていた弟子が空海のもとから戻らなかったり、経典を読んで理解しようとした最澄に、空海は何よりも実践することが大切だとしてお経を貸さなかったりしたため、方向性の違いから、次第に二人は疎遠になってしまいました。

密教の修行道場、高野山を開創する

空海は、密教を日本で広めながら、日本で密教を広めるのにふさわしい道場を探していました。山々を探し歩いていると、山の中で一人の狩人に出会います。

その狩人に「どこか密教を広めるのにふさわしい場所はないか?」と聞くと、「いい場所がある。この二匹の犬に案内させよう。」と言って、二匹の犬に空海を案内させました。

二匹の犬に連れられて向かうと、なんと、そこの山にあった松の木に、唐より投げた三鈷杵がかかっていました。この場所こそが、のちに密教の一大道場となる「高野山」です。

この地こそがふさわしいと確信した空海は、朝廷よりこの地を密教の修行道場として開くことの許しを得て、高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)の造営を始めます。

実はこの案内してくれた狩人の正体は狩場明神(かりばみょうじん)という高野山の氏神様でした。そして、空海を案内した二匹の犬は神の使いだったのです。
空海は、高野山を整備するとき、狩場明神に感謝するために、一番最初にこの明神様を祀る神社からつくり始めたと言われています。

今では金剛峯寺は高野山真言宗の総本山として、独立した1つのお寺になっていますが、本来、金剛峯寺とは高野山全体のことをさします。つまり、高野山のいたるところ全てがお寺なのです。

その中でも、高野山の本堂と呼ばれるのが、高野山でも重要なお堂が集まるエリア、壇上伽藍(だんじょうがらん)にある「金堂(こんどう)」です。
高野山の重要な法要は、ほとんどこの金堂で執り行われます。

ちなみに、この三鈷杵がかかっていた松の木は、「三鈷の松」として、高野山の壇上伽藍の中にあります。その松の木の葉っぱは、通常ならば2本1組なのですが、不思議なことに、3本1組で、運良く見つけ、持っていると、幸運が訪れると信仰されています。

地元、四国を助けるために尽力、四国八十八ヶ所霊場も整備

空海の地元である讃岐国に、満濃池(まんのういけ)という農業に使われるため池がありました。
四国は雨が少なく、干ばつに見舞われる一方、この満濃池は雨が降るたびに決壊し、住民は困っていました。

何度修理しても、すぐ壊れてしまい、困り果てた讃岐の役人は修理の監督として空海を派遣するように朝廷に依頼しました。
なぜなら、空海は唐で、密教だけではなく、最新の土木技術なども学んで帰国していたからです。
また、地元である讃岐国では空海を慕う者は非常に多く、空海が指揮をとるとなれば、多くの人が力になってくれると見込んでのことでした。

そこで、空海が派遣され、唐で学んだ水圧に耐える構造を使った工法を用いて、わずか3ヶ月で完成させることに成功しました。
空海は指揮をとるかたわら、池のほとりで毎日護摩を焚いて工事の無事を祈願していたそうです。

他にも、空海は、自身が修行した場所などを巡る、四国八十八ヶ所の霊場もひらきました。この霊場は次第に整備されていき、お遍路として多くの人の信仰を集めることになります。

お遍路についてさらに知りたい人はコチラの記事もご覧ください。
お遍路に行こう!初心者でも安心、四国八十八ヶ所の準備から歩き方まで紹介

全ての人を救うために入定、大師信仰が始まる

民衆を救い、密教を広めるために尽力した空海も、晩年になると自らの命が残りわずかであることを悟ります。

万灯万華会(まんどうまんげえ)という、高野山で最初に開かれた法要で、空海はこのような言葉を残しました。
「虚空(こくう)尽き、衆生(しゅじょう)尽き、涅槃(ねはん)尽きなば我が願いも尽きん」(宇宙が尽き果て、人々も尽き果て、悟りの境地も尽き果てることがもしあれば、私の願いも尽きるだろう)

この言葉は、全ての衆生にずっと報いたいという、空海の気持ちを表したものです。

そして、いよいよ自らの終わりを悟った空海は、3月15日に弟子たちを集め、「私は3月21日の寅の刻に入定(にゅうじょう)する」と告げます。

入定とは、永遠の禅定(ぜんじょう)に入るという意味で、すなわち、永遠に全ての人々を救い続けるという意味です。(空海は亡くなったのではなく、永遠の禅定に入っていると信じられているので、亡くなったことを表す入寂ではなく入定という言葉を使います。)

そして、「私は弥勒菩薩(みろくぼさつ、お釈迦様の次にこの世の中に仏として現れるとされる仏)の浄土へ行き、弥勒菩薩がこの世に現れる56億7千万年後に、共にこの世に戻ってくるだろう」と告げ、835年(承和二年)3月21日、62歳で入定したのです。
空海の身は弟子たちによって四十九日の間絶えず供養され、衣を整えてから高野山の奥の院に移されました。

それから86年後、時の天皇である醍醐(だいご)天皇により、空海に大師号が与えられることになりました。
大師とは、功績を残したお坊さんに天皇より与えられる尊称です。
この時に、朝廷より「弘法大師(こうぼうだいし)」という名前が与えられました。弘法とは、「弘法利生(こうぼうりしょう)」、すなわち広く教えをひろめ、人々を救った功績からこの名前になりました。

大師号を賜ったことを空海に報告するために、奥の院にて入定している空海に、京都にある東寺の長者である観賢(かんげん)が報告に上がりました。

空海がいる奥の院の御廟を開けてみると、空海はまるで生きているかのように髪が伸び、衣もボロボロのまま禅定に入っていました。
驚いた観賢は深く礼拝してから空海の髪を丁寧に剃り、醍醐天皇から賜った衣を着せて、固く御廟を閉ざしました。
それ以来、奥の院の御廟は開けられていません。

空海は1200年経った現代も、「お大師様」として、私たちを見守ってくださいます。そんなお大師様に対してお大師様を信仰する人々は、お参りをするときに、お大師様への敬意と感謝を込めて、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」とお唱えします。

ここまで、空海の生涯と、主な実績をご紹介しました。

    空海の生涯のまとめ
    ・774年(宝亀五年)6月15日に、讃岐国(現在の香川県)で誕生
    ・7歳の頃、天女に助けられる不思議な体験をする(捨身誓願)
    ・18歳の頃、大学に入学するも、お坊さんを志して山や野で修行の日々を送る
    ・室戸岬(高知県)で仏様と一体になる不思議な体験をする。これを機に「空海」と名乗る
    ・密教を学ぶために、唐(中国)へ遣唐使として留学
    ・唐の高僧、恵果より密教を学び、わずか2年あまりで帰国
    ・密教を日本に持ち帰り最澄に伝授するがのちに方向性の違いで最澄とは決別してしまう
    ・満濃池の修復など、日本で人々に役立つための活動をする
    ・高野山を開創し、密教の修行をするための道場とする
    ・835年(承和二年)3月21日、62歳で入定
    ・921年(延喜二十一年)醍醐天皇より「弘法大師」の名前を贈られる

さて、空海が唐から持ち帰った密教とはどのような教えなのでしょうか?
密教は本来よく学び、実際に修行を通して体験しないと理解できない部分が多くありますが、ここではできる限りわかりやすく解説します!

空海が開いた真言宗は、生きたまま仏になれる「密教」を教えとする宗派

    密教についてまとめ
    ・密教とは、「秘密の教え」という意味
    ・密教では即身成仏(そくしんじょうぶつ)ができると考える。即身成仏とは、生きたこの身のまま仏様になれるという意味
    ・即身成仏するためには、自分自身の「身・口・意」を仏様の境地に持っていく修行、三密行をする

密教とは、秘密の教えのこと

まず、「密教とはなにか?」という基本から解説します。

密教は「秘密の教え」という意味です。密教以外の仏教のことを「顕教(けんぎょう)」と言い、顕教とは、「あらわになっている教え」、それに対しての密教は「秘密の教え」です。

密教でいう秘密とは、人間の言葉では表せないことをいい、言葉を超えた真理を知ることを重要視します。

さて、仏教はそもそも何を目的とする宗教なのでしょうか?答えは、「成仏」を目指す、すなわち悟りを開いて仏様になることが目的です。

顕教では、成仏して仏様になるためには非常に長い時間がかかると考えられています。

その長さ、なんと「一辺が2000kmもある巨大な岩に、1000年に一度天女が舞い降りてきてその裾でぬぐい、摩擦でその岩が消滅するまで(この長さを劫(こう)と言います)」×「3阿僧祇(あそうぎ、1阿僧祇は10の56乗)」もの時間がかかると言われていました。途方も無い時間ですね。

仏教をこの世で開かれたお釈迦様も、それほど長い時間をかけて、何度も輪廻してやっと仏様になったと考えられていました。

それに対して密教では、そんなに長い時間をかけなくても、生きたまま、この身で仏様になることができる「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説きました。

空海は、なぜ即身成仏できるかを、次のように説きました。わかりやすく要約したものを紹介します。

    『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』(空海が記した、なんで我々が即身成仏できるのかを解説した書物)より抜粋、要約

    「密教でもっとも大事にされている仏様は「大日如来」という仏様です。大日如来とは、宇宙の全て、そのものである仏様です。
    世の中に存在する私たちも、宇宙の一部であることには変わりないので、私たちも大日如来であると言えるでしょう。
    そこで、身と口と意を仏様と同じようにして修行をすれば、生きたままで速やかに成仏することができるでしょう。」

この身と口と意を三密といい、三密を仏様の境地に持っていく修行のことを、「三密行(さんみつぎょう)」と言います。真言宗では、この三密行を通して成仏を目指します。

真言宗のお坊さんになるための修行、「四度加行(しどけぎょう)」では、三密行を実践するために、空海をはじめ、数多くのお坊さんによってまとめられた修行の方法にのっとって修行をします。

この修行では、身と口と意を仏様の境地にするために、手で印(仏像の手の形のようなポーズ)を結び、口で真言(仏様の言葉で、呪文のようなもの)を唱え、仏様の心になれるようになるように観想(イメージ)をする修行をひたすら行います。

この修行をクリアした人のみ、一人前のお坊さんである阿闍梨(あじゃり)を名乗ることが許されるのです。

実践してみよう!お大師様の3つの教え

修行の話だけ聞くと、「教えを実践するためには、お坊さんにならないとダメなのかな・・・」と思ってしまいますよね。でも、一般の方でも、日常生活の中で三密行を実践することができるんです!

実践する方法を、高野山で学んだ私が僭越ながらご紹介します。
簡単に説明すると、身・口・意は、字の如く以下のような意味になります。

身:正しい姿勢
口:言葉づかい
意:思いやりの心

ひとつずつ詳しくみていきます。
まず、身の修行。
人の立ち振る舞いは、それだけで人の印象を変えてしまうほど、重要なものです。また、軽率な行動は時に人を悲しませたり、不快にさせてしまいます。
仏様になったように、背筋を正し、美しい振る舞いを心がけましょう。

次に、口の修行。
言葉には本人が思っている以上の力があります。言葉は時に人をを喜ばせ、時に人を悲しませてしまいます。
仏様だったらどんな言葉を使うだろうと考え、感謝の気持ちを持った言葉づかいを心がけましょう。

最後に、意の修行。
思いやりの心から全ての優しい行動、言動が生まれます。
正しく物事を判断できる心を養い、些細なことに流されず、仏様のような心を持って生活しましょう。

身:正しい姿勢
口:言葉づかい
意:思いやりの心

日常生活の中でこれらを実践すれば、毎日よりよく、仏様のような慈悲の心を持って生活することができるでしょう。
ぜひ、心がけてみてください!

空海の足跡をたどる、ゆかりのお寺5選

最後に、空海の生涯にゆかりのある各地のお寺をご紹介します。ぜひ、実際に訪れて、空海の生涯に触れてみてください!

善通寺(香川県)

善通寺(ぜんつうじ)は、空海が誕生した場所にあるお寺です。善通寺という名前も、父、善通(よしみち)の名前からきています。

善通寺にある誕生院は、まさに空海が生まれ育った佐伯氏の邸宅跡にたっています。また、この善通寺は四国霊場の75番札所になっています。
善通寺|ホトカミ
善通寺|公式

出釈迦寺(香川県)

出釈迦寺(しゅっしゃかじ)は、空海が幼い頃、崖から飛び降りた「捨身誓願」を行った、捨身ヶ嶽があるお寺です。四国霊場の73番札所にもなっています。

この捨身ヶ嶽は登ることができますが、日本屈指の急な坂や鎖場を登る必要があります。幼い頃の空海がいかに凄い体験をしたか、追体験できる場所です。
出釈迦寺|ホトカミ
出釈迦寺|公式

最御崎寺(高知県)

この最御崎寺(ほつみさきじ)は、空海が虚空蔵求聞持法を体得した室戸岬の先端にあるお寺です。

四国24番札所であり、近くに空海が修行をしたとされる御厨人窟(みくろど)があります。台風の影響で一時期入れませんでしたが、現在ではヘルメットを着用することを条件に洞窟の中まで入ることができます。
最御崎寺|ホトカミ
最御崎寺|公式

高野山(和歌山県)

高野山真言宗の総本山であり、今も空海がいると信仰されている、空海に最も近いといっても過言でない場所です。
総本山金剛峯寺を始め、壇上伽藍の根本大塔や金堂、開創1200年を記念して2015年に再建された中門がなど見どころです。

また、高野山でもっとも神聖な場所である奥の院には、名だたる戦国大名のお墓などもあり、およそ20万ものお墓や供養塔などが立ち並んでいます。
奥の院の一番奥にある御廟では、空海が今も全ての人の幸せのために祈りを捧げており、どなたでも空海とご縁を結ぶことのできる場所です。
高野山金剛峯寺|ホトカミ
高野山金剛峯寺|公式

東寺(京都府)

東寺(とうじ)は京都にあるお寺で、正式名称は教王護国寺(きょうおうごこくじ)と言います。
もともと東寺は、都に置かれた国立のお寺でした。時の天皇である嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した空海に、このお寺を託します。

空海はこのお寺を真言宗を世に広めるためのお寺として整備されました。その方法として使ったのが立体曼荼羅です。密教の世界観を表した曼荼羅を、仏像を配置することによって表現し、誰でも理解できるようにしました。

この立体曼荼羅は、東寺の講堂で公開されており、空海が思い描いた世界を目で見て体験することができます。
東寺|ホトカミ
東寺|公式

おわりに

空海は平安時代に活躍し、人々を救うために、また密教を広めるために全力を尽くしたお坊さんでした。
そのために、唐で学んだあらゆることを使い、苦しむ人々に寄り添い続けました。

そして、今は高野山で、全ての人々が幸せになるために、日々祈りを捧げています。
そのため、現代でも空海を慕う多くの人に信仰されています。
この記事を読んで、真言宗の開祖、空海のことを知っていただけたら幸いです。

そして、もしご縁がありましたら、高野山におわします「お大師様」とご縁を結んでいただけたら何よりの喜びです。

南無大師遍照金剛
合掌


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