やちはちまんぐう
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
谷地八幡宮ではいただけません
広告
谷地八幡宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月11日(木)
参拝:2023年7月吉日
谷地八幡宮の参拝記録
当八幡宮は宝永五年(1708)二月、翌六年(1709)三月、慶応二年(1866)四月、この三度の大火により、社殿等悉く焼失致しております。残存します文献また、相伝うところによると「人皇七十二代堀川院の寛治五年(1091)、奥州清原氏平定を果たした源義家が神恩に感謝して白鳥村(現村山市白鳥)に石清水八幡を勧請して祈願所にした」と、伝えております。
その後天正年間(1573-1592)には、谷地城主白鳥十郎長久公が谷地城築城の折、白鳥村より円福寺とともに現在の地に遷し鎮守社といたしました。明治初年までは別当職円福寺をはじめ門徒寺六寺坊により真言宗をもって奉仕されてまいりました。
明治期には神仏分離とともに「郷社 八幡神社」と改称いたします。昭和十五年には「県社」に昇格。昭和三十四年「別表神社」に加列。社名を「谷地八幡宮」と改称いたしました。
当八幡宮は宝永五年(1708)二月、翌六年(1709)三月、慶応二年(1866)四月、この三度の大火により、社殿等悉く焼失致しております。残存します文献また、相伝うところによると「人皇七十二代堀川院の寛治五年(1091)、奥州清原氏平定を果たした源義家が神恩に感謝して白鳥村(現村山市白鳥)に石清水八幡を勧請して祈願所にした」と、伝えております。
その後天正年間(1573-1592)には、谷地城主白鳥十郎長久公が谷地城築城の折、白鳥村より円福寺とともに現在の地に遷し鎮守社といたしました。明治初年までは別当職円福寺をはじめ門徒寺六寺坊により真言宗をもって奉仕されてまいりました。
明治期には神仏分離とともに「郷社 八幡神社」と改称いたします。昭和十五年には「県社」に昇格。昭和三十四年「別表神社」に加列。社名を「谷地八幡宮」と改称いたしました。
すてき
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。