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出羽神社(出羽三山神社)~三神合祭殿~ではいただけません
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出羽神社(出羽三山神社)~三神合祭殿~のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年10月27日(水)
参拝:2021年10月吉日
出羽三山神社(でわさんざん~)(三神合祭殿)は、山形県鶴岡市羽黒町にある神社。式内社で、旧国幣小社。現在は神社本庁の別表神社。祭神は伊氐波神(いでは)、稲倉魂命。羽黒山、月山、湯殿山を合わせて出羽三山といい、それぞれに出羽神社、月山神社、湯殿山神社があるが、月山と湯殿山は豪雪のため冬季閉鎖となるため、明治時代以降、出羽神社の社殿を出羽三山神社の三神合祭殿としている。境内にある五重塔は国宝、三神合祭殿、鏡池出土古鏡・銅燈籠棹(ともに出羽三山歴史博物館所蔵)が国指定の重要文化財。
創建は推古天皇の御代の593年、第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が奈良の都から当地に至り、霊鵜の導きにより羽黒山を開山し、次いで月山と湯殿山を開山した。出羽三山信仰は、自然崇拝、山岳信仰の古神道に発し、平安時代以降は仏教の影響を受け神仏習合した結果、敬神崇祖を根本として、基本は神道をもって奉仕するが、祭は道教、陰陽道、密教を中心とする修験道をもって奉仕する独特な形で発展した。この時期、修験道の祖・役ノ行者、真言宗開祖・空海、天台宗開祖・最澄も来山し修行をしたと伝わる。また羽黒山の出羽神社(伊氐波(いでは)神社)は、927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「出羽國 田川郡 伊氐波神社 小」に比定されている。鎌倉時代には羽黒山は「八宗兼学の山」と称され、全国各地から修行僧が入山し、各州を実践修得したという。その後、出羽国周辺では出羽三山は「親子相伝のお山」とされ、成人儀礼として男子が15歳になると「初山駆け」をしなければならない風習が定着、関東方面でも出羽三山登拝を「奥参り」と称して人生儀礼とするとして位置づけられるようになった。江戸時代になると民間信仰が隆盛し、「西の伊勢参り、東の奥参り」と言われ、伊勢神宮参拝と並んで出羽三山参拝、講の結成が江戸を中心に人々の間で広まった。俳聖として有名な松尾芭蕉も1689年に出羽三山を訪れ、出羽神社では「有難や 雪をかほらす 風の音」という俳句を詠んでいる。
神仏習合の時代、羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、当時三山に含まれていた葉山・薬師岳は薬師如来(未来)、湯殿山は三山とは別格(出羽三山の奥の院)の大日如来とされ、観音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来の導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、大日如来の境地に至って即身成仏を達成するという「三関三渡」の修行が行われた。
明治時代になると、神仏分離令により寺院は廃止され、出羽三山は出羽神社、月山神社、湯殿山神社となったが、月山と湯殿山が冬期豪雪のため出羽神社の社殿で合祭する形になり、出羽三山神社となった。
当社は、JR羽越本線・鶴岡駅の東南東12kmの羽黒山(標高414m)の山頂にある。社殿には車で直接行くこともできるが、山麓の隋神門から2446段の石段を登って行くのが王道。途中、国宝の五重塔が建っているほか、境内社がいくつも立っているが、石段が急峻なゾーンが3ヶ所ほどある。頂上の社殿周りは広大で、大きな三社合祭殿とその前に鏡池、鐘楼、多数の境内社、社務所棟、少し離れたところに博物館、駐車場などがある。
今回は、出羽三山の中心神社、出羽国の式内社、旧国幣小社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は週末の午前中から午後にかけて、コロナ禍が徐々に解消しつつあることもあるのか、大勢の観光客が参拝に訪れていた。
★今回の山形旅行の最大の目的地はこちら。昨年は西の<伊勢>に行ったので、今年は東の<奥(出羽)>に参拝。
創建は推古天皇の御代の593年、第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が奈良の都から当地に至り、霊鵜の導きにより羽黒山を開山し、次いで月山と湯殿山を開山した。出羽三山信仰は、自然崇拝、山岳信仰の古神道に発し、平安時代以降は仏教の影響を受け神仏習合した結果、敬神崇祖を根本として、基本は神道をもって奉仕するが、祭は道教、陰陽道、密教を中心とする修験道をもって奉仕する独特な形で発展した。この時期、修験道の祖・役ノ行者、真言宗開祖・空海、天台宗開祖・最澄も来山し修行をしたと伝わる。また羽黒山の出羽神社(伊氐波(いでは)神社)は、927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「出羽國 田川郡 伊氐波神社 小」に比定されている。鎌倉時代には羽黒山は「八宗兼学の山」と称され、全国各地から修行僧が入山し、各州を実践修得したという。その後、出羽国周辺では出羽三山は「親子相伝のお山」とされ、成人儀礼として男子が15歳になると「初山駆け」をしなければならない風習が定着、関東方面でも出羽三山登拝を「奥参り」と称して人生儀礼とするとして位置づけられるようになった。江戸時代になると民間信仰が隆盛し、「西の伊勢参り、東の奥参り」と言われ、伊勢神宮参拝と並んで出羽三山参拝、講の結成が江戸を中心に人々の間で広まった。俳聖として有名な松尾芭蕉も1689年に出羽三山を訪れ、出羽神社では「有難や 雪をかほらす 風の音」という俳句を詠んでいる。
神仏習合の時代、羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、当時三山に含まれていた葉山・薬師岳は薬師如来(未来)、湯殿山は三山とは別格(出羽三山の奥の院)の大日如来とされ、観音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来の導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、大日如来の境地に至って即身成仏を達成するという「三関三渡」の修行が行われた。
明治時代になると、神仏分離令により寺院は廃止され、出羽三山は出羽神社、月山神社、湯殿山神社となったが、月山と湯殿山が冬期豪雪のため出羽神社の社殿で合祭する形になり、出羽三山神社となった。
当社は、JR羽越本線・鶴岡駅の東南東12kmの羽黒山(標高414m)の山頂にある。社殿には車で直接行くこともできるが、山麓の隋神門から2446段の石段を登って行くのが王道。途中、国宝の五重塔が建っているほか、境内社がいくつも立っているが、石段が急峻なゾーンが3ヶ所ほどある。頂上の社殿周りは広大で、大きな三社合祭殿とその前に鏡池、鐘楼、多数の境内社、社務所棟、少し離れたところに博物館、駐車場などがある。
今回は、出羽三山の中心神社、出羽国の式内社、旧国幣小社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は週末の午前中から午後にかけて、コロナ禍が徐々に解消しつつあることもあるのか、大勢の観光客が参拝に訪れていた。
★今回の山形旅行の最大の目的地はこちら。昨年は西の<伊勢>に行ったので、今年は東の<奥(出羽)>に参拝。
当社入口まで道のり3kmちょっとの、県道47号線上にある<羽黒山大鳥居>。2018年に再建された。高さ24m、最上部の笠木の幅は32m。高さ基準だと、東北ではNo.1、全国だとたぶん10位。ちなみに全国No.1は熊野本宮大社の大鳥居で33.9m。
羽黒山の北西部にある境内入口。羽黒山自体は標高414mと高くはないため、入口から山全体の姿は見えない。
境内入口の<鳥居>と<社号標>。鳥居をくぐると、左手には<授与所>がある。
参道を進むと、鮮やかな朱色が印象的な<隋神門>。江戸時代の1695年に秋田の由利郡矢島の領主・生駒讃岐守が<仁王門>として家運繁栄と極楽往生を祈念して寄進したとのこと。ここからが神域。
隋神門の手前右側の少し高い場所にある<天地金(てんちこん)神社>。金神(陰陽道で祀られる遊行神)を鎮祭したもので、昭和の時代に旧元三大師堂を大修復したもの。
隋神門をくぐると、<継子坂>という坂を下る。山伏の秋峰行(修行)では、山頂から隋神門まで一気に駆け抜けるが、その最終盤の登り坂で、「生まれ変わり」のための苦しみを与える坂となっているとのこと。
継子坂の下には、いくつかの境内社が参道沿いに並んでいる。参道は右方向に続く。
継子坂の下には、いくつかの境内社が参道沿いに並んでいる。参道は右方向に続く。
やがて川が現れ、<神橋>を渡る。
神橋の横には<須賀の滝>が見える。江戸時代前期の1654年に8km先の水呑沢から堰を築いて造った人口の滝というから驚き。(;゚Д゚) この場所が、羽黒山で最も低い場所で、ここから徐々に登って行く。
滝の手前に見えるのは、左側が<岩戸分神社>、右側が<祓川神社>。
滝の手前に見えるのは、左側が<岩戸分神社>、右側が<祓川神社>。
少し進むと、参道の左手には<爺杉>が立っている。国の天然記念物で、樹齢はなんと1000年以上。
さらに進んで、参道の左手に建っている、国宝<五重塔>。かつてはこの一帯は<瀧水寺>という寺院で、五重塔はその本堂だった。
絶妙な光の当たり具合の<五重塔>。(たぶん)西側から見たところ。
<五重塔>を(たぶん)南側から見たところ。
やがて、本格的な石段の坂が始まる。全体で2446段あるが、3つきついセクションがあって、それぞれ<一ノ坂>、<二ノ坂>、<三ノ坂>という。こちらは<一ノ坂>を示す石柱。
参道の両側には、数百年間手つかずの環境下でのびのびと育った杉の巨木たちが立ち並んでいる。
こちらは<女夫杉(めおとすぎ)>。
参道右側にある<火石>。夜になると光を放ち、海を通る船への灯台の役目を担ったと伝わる。
参道左側にある<湯殿山遙拝所>。
やがて、全行程の中で最もきついと言われる<二ノ坂>に差し掛かる。別名を<油こぼし/弁慶の油こぼし>と言い、さすがの弁慶も坂がきつくて神に供える油をこぼしたと伝わる。
参道を登るペースは人それぞれ。写真を撮りながら登る自分たちは、速い人には抜いてもらい、前後の人たちと間隔を開けながら登って行く。事前調査の通り、急な勾配区間が長い<二ノ坂>が一番きつかった。
二ノ坂を登り切ったところにある<二ノ坂茶屋>。ちょうど疲れ切る場所にあって、参道脇には座り込む場所もないので、いい確率でお客さんを吸い込んでいる。自分たちはこのまま登り続ける。
二ノ坂の後は、しばらくほぼ平坦な場所を通る。ちなみに、参道脇の杉の木は600本近くあり、戦国時代から江戸時代にかけて植林したもので、国の特別天然記念物となっている。
こちらは参道右手にある<芭蕉塚>。松尾芭蕉は、江戸時代中期に当地を訪れ「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」と詠んでいる。この芭蕉塚自体も江戸時代中期の1730年に鶴岡俳人連衆が建立している。
いよいよ終盤、<三ノ坂>の標識。
疲れが溜ってきているからか、二ノ坂と同じぐらいきつい感じがする...(^_^;)
参道途中左側にある<埴山姫(はみやまひめ)神社>。ここに来るまでに参道両側にたくさん境内社があったが、当社だけ祭神の埴山姫命が<縁結びの神>であることから、たくさんの願掛けの赤い紐が括り付けられている。
やがてゴールの鳥居が見えてきたところ、参道左側にある<手水舎>。
こちらがゴールの鳥居。扁額には縦書きで<羽黒山>と書かれている。
鳥居をくぐってすぐ左側にある<厳島神社>。
厳島神社の右隣にある<蜂子社>。蜂子社を含め、いくつかの境内社については御朱印の領布がある。
階段を数段上がると、当社のメインの建物<三神合祭殿>が現れる。(残念ながら向かって左側は修復中...)
<三神合祭殿>は、月山、羽黒山、湯殿山の三神を一堂に祀る社殿で、拝殿と本殿の一体型。江戸時代後期の1811年に焼失し、1818年に再建されている。国指定の重要文化財。茅葺の木造建築物としては日本最大で、茅葺屋根の厚さはなんと2.1mもあるとのこと。(;゚Д゚)
左から順に<湯殿山神社>、<月山神社>、<出羽神社>の3社の扁額が掛かっている。参拝順序としては右の出羽神社、続いて月山神社、湯殿山神社とされる。
<社殿>内部の扁額には<三社合祭殿>とある。それにしても祈祷希望者が多い。
<社殿>全景。当社社殿については、この位置からの写真が一番多い。
その理由は、社殿の目の前に<鏡池>があって、池の周りに巨木が何本も植わっており、例えば池の反対側から社殿を撮影しても全体が見えないため。
三神合祭殿の隣には参集殿があり、その参集殿の前には<鐘楼>が建っている。最上義俊により、江戸時代初期の1618年に建立。国指定の重要文化財。
参集殿の奥にある<霊祭殿>。
三神合祭殿の前を通り、突き当りを少し高いところにある<東照社>。江戸時代前期の1645年に庄内藩主・酒井左エ門尉が建立。
東照社の右隣にある<神輿舎>。
神輿舎の右手には、同サイズの社殿が7社並んでいる。左から順に<大雷神社>、<建角身神社>、<稲荷神社>、<御大山祇神社>、<白山神社>、<思兼神社>、<八坂神社>。
この先、頂上駐車場からの入口の鳥居があって、その近くには大きく立派な<手水舎>がある。
さらに奥に進むと<出羽三山歴史博物館>がある。散策としては、奥の駐車場でUターンし戻って来る。
ここで、登山道山頂の鳥居近くにある<羽黒山斎館>でのランチのご紹介。
参道左側にある入口を進むと、門があってその先に上写真の建物がある。
基本は古い木造建築だが、内装はきれいにしてあって、名物の精進料理が食べられる(要事前予約)。
料理の見た目はこんな感じ。3300円(10品)か2200円(7品)の2択。期待以上に美味しかった。
帰りは下山がてら、みどころの再撮影。まず<三神合祭殿>。重文。
つづいて<鐘楼>。重文。
最後に<五重塔>。国宝。
五重塔前の苔生した燈籠。
すてき
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惣一郎1269投稿
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