けたじんじゃ
気多神社のお参りの記録一覧
射水神社の次は、同じく越中国一宮氣多神社に参拝に行ってきました。
あまり人気は無かったので、ゆっくり境内を散策しながら、お詣りをする事が出来ました。やはりこの辺も能登地震の影響があったみたいで、灯籠が倒壊してました。地震の怖さを目の当たりにしました。何体か石灯籠が倒壊してました。
残念ながら御朱印は書き置きでした。
富山の名水氣多神社の清泉
汲んで帰りました。
神社参道階段
最初の鳥居
由緒書き
地震の影響か倒壊してました。
狛犬
狛犬
本殿由緒書き
拝殿
拝殿
本殿
略史
大伴神社
大伴神社
狛犬
狛犬
狛犬
狛犬
御輿堂
参道
倒壊してました。
出張先での仕事が早く終わったので、気多神社さんにおまいりに行きました。
ここの近くには7年7ヶ月前にも来たことがあるのですが、気多神社さんにおまいりに行くのは初めてでした。
他に全く人がおらず、大変厳かな雰囲気の中、ゆっくりとおまいりできました。
気多神社近くの雨晴海岸には、7年7ヶ月ぶりで2回目の来訪です。
前に来た時は、富山湾の向こうに雪を被った立山連峰がとてもきれいに見えましたが、今回は雲がかかっていて全く見えず残念でした。
書き置きの御朱印をいただきました。
[高岡御朱印巡り2]
木々に囲まれた静かな神社さん。
鳥居をくぐると空気感が変わります☘️
綺麗で気持ちの良い神社さんですね😊
越中国一ノ宮
祭神 大己貴命・奴奈加波比売命
ご利益 良縁、復縁
大伴家持が祀られた、大伴神社が境内にあした。
神社下の駐車場に停めましたが、上にも駐車場がありました。
御朱印は神社下の社務所に大小の書き置き御朱印が置いてあります。
階段を上がっていきます
鳥居⛩
御神馬
もう少し階段を上がった先に拝殿
狛犬さん
狛犬さんと御神木
拝殿
本殿
大伴神社⛩
雷⚡️が落ちたのかな?
御朱印
【越中國 式内社巡り】(過去の参拝記録)
気多神社(けた~)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社。式内社で、越中國一之宮(※)。旧社格は県社。祭神は、大己貴命、奴奈加波比売命。本殿は国指定の重要文化財。
社伝によると、奈良時代の717年に祭神を勧請し創建とある。しかし通説では『式内社調査報告書』などに記載される通り、757年に越中国から能登国を分立する際に、能登国の気多大社から分霊を勧請したものと考えられている。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越中國 射水郡 気多神社 小(または名神大)」に比定されている(「出雲本」では小、「九条本」等では名神大)。のち射水神社との間で一宮争いが生じたが、1163年に成立した『白山之記』では、越中國一之宮であったが、射水神社が無力の間に当社が一宮になったと記載されている。
中世以降、別当寺である慶高寺とともに神仏習合の形で発展し、寿永年間(1182年~1185年)には木曾義仲の兵火、天文年間(1532年~1555年)の上杉謙信の兵火で伽藍や社殿を焼失したが、その度に再建されている。安土桃山時代に検地で社領が召し上げられ荒廃し堂塔大破するも、加賀藩主・前田家の庇護を受け、1645年には加賀藩3代藩主・前田利常により社殿が修復され、供田を寄付されている。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR氷見線・越中国分駅の南西1kmのなだらか丘の上にある。当社の東方、丘の下には越中国分寺跡があり、当社の西方、社殿の背後には里山展望台がある。森の一部が境内のようになっていて、境内の神聖な空気感が非常に良い。境内のアップダウンは激しくはなく、社殿周りだけが一段高くなっている。立地としては一宮と称されることがあるのは納得だが、他の一宮のような豪壮な感じはしない。
今回は、越中國の式内社、越中國一之宮、富山県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は平日の昼ごろで、我々以外にも家族連れや夫婦連れなど、割と多くの参拝者が訪れていた。
(※)越中国では、射水神社(射水郡)、気多神社(射水郡)、高瀬神社(礪波郡)、雄山神社(新川郡)の4社(いずれも式内社)が「越中國一之宮」を称している。なお、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地は、現高岡市伏木(気多神社の所在地)とされている。
境内南東端入口にある<社号標>。
社号標に至るまでの公道脇にある<手水舎>。
入口の階段を登ると<鳥居>。この後、社殿前まで平坦な参道・境内が続く。
社殿は一段高いところにある。
階段を登って<拝殿>全景。横長なのが特徴。
階段を登った左側にある<狛犬>。微笑みを湛えたような独特な表情。(o^―^o)
階段を登った右側にある<狛犬>。材質は黄色っぽい独特な色合い。
拝殿に向かって右手にある<参集殿>。
<拝殿>正面。扁額は普通に「気多神社」。
<拝殿>内部。採光の良い幣殿の奥に本殿が見える。
拝殿後ろの<本殿>。戦国時代、永禄年間(1558~1570)の再建。三間社流造、向拝一間、杮葺。美しい佇まい。国指定の重要文化財。
社殿の左方向にある<御輿堂>。
御輿堂の近くにある<拝受所>。もう使われていないみたい。
社殿の左方向にある<大伴神社>全景。『万葉集』を編纂し、越中国司として当地で223首もの歌を詠んだとされる大伴家持を祀る。
<大伴神社>の社殿。
大伴神社から下ったところにある<神馬>。
神馬の近くにある<大伴家持卿顕彰碑>。
参道を挟んで神馬と反対側にある<越中総社跡伝承地>。
越中総社跡伝承地の近くにある<祭器庫>。
境内入口近くまで戻って、参道左側にある<社務所>。御朱印はこちら。
境内入口近くからの景色。富山湾が見える。(^▽^)/
越中一宮の気多神社です。
いよいよお詣りします。
一の鳥居を潜ります。
長い参道を通り
階段を登ると
拝殿があります。
拝殿近影。
苔むして雰囲気は最高です。
御朱印は書き置きでした。
二上山の東麓の高台に位置し、南南東1Kmに国衙跡とされる古古府がある。また東南500mには国分寺跡とされる薬師堂があり、越中国の中心部に位置している。
よって、当社は越中国一宮と称し、地名も一ノ宮。越中には、一宮と自称する神社が四社あるが、その一つ。国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだという。他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。
社伝によれば、養老元年(717)、能登・気多大社からの勧請。
能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。
延喜式には、「名神大社」とあるが、写本によっては射水神社が名神大社となっており、混乱が見られる。
『白山記』には、二上(射水)と新気多が勢力争いをして、新気多が勝ち、一宮となったとあるらしい。
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