けたじんじゃ
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楽しみ方気多神社のお参りの記録一覧
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出張先での仕事が早く終わったので、気多神社さんにおまいりに行きました。

ここの近くには7年7ヶ月前にも来たことがあるのですが、気多神社さんにおまいりに行くのは初めてでした。
他に全く人がおらず、大変厳かな雰囲気の中、ゆっくりとおまいりできました。

気多神社近くの雨晴海岸には、7年7ヶ月ぶりで2回目の来訪です。
前に来た時は、富山湾の向こうに雪を被った立山連峰がとてもきれいに見えましたが、今回は雲がかかっていて全く見えず残念でした。




【越中國 式内社巡り】(過去の参拝記録)
気多神社(けた~)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社。式内社で、越中國一之宮(※)。旧社格は県社。祭神は、大己貴命、奴奈加波比売命。本殿は国指定の重要文化財。
社伝によると、奈良時代の717年に祭神を勧請し創建とある。しかし通説では『式内社調査報告書』などに記載される通り、757年に越中国から能登国を分立する際に、能登国の気多大社から分霊を勧請したものと考えられている。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越中國 射水郡 気多神社 小(または名神大)」に比定されている(「出雲本」では小、「九条本」等では名神大)。のち射水神社との間で一宮争いが生じたが、1163年に成立した『白山之記』では、越中國一之宮であったが、射水神社が無力の間に当社が一宮になったと記載されている。
中世以降、別当寺である慶高寺とともに神仏習合の形で発展し、寿永年間(1182年~1185年)には木曾義仲の兵火、天文年間(1532年~1555年)の上杉謙信の兵火で伽藍や社殿を焼失したが、その度に再建されている。安土桃山時代に検地で社領が召し上げられ荒廃し堂塔大破するも、加賀藩主・前田家の庇護を受け、1645年には加賀藩3代藩主・前田利常により社殿が修復され、供田を寄付されている。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR氷見線・越中国分駅の南西1kmのなだらか丘の上にある。当社の東方、丘の下には越中国分寺跡があり、当社の西方、社殿の背後には里山展望台がある。森の一部が境内のようになっていて、境内の神聖な空気感が非常に良い。境内のアップダウンは激しくはなく、社殿周りだけが一段高くなっている。立地としては一宮と称されることがあるのは納得だが、他の一宮のような豪壮な感じはしない。
今回は、越中國の式内社、越中國一之宮、富山県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は平日の昼ごろで、我々以外にも家族連れや夫婦連れなど、割と多くの参拝者が訪れていた。
(※)越中国では、射水神社(射水郡)、気多神社(射水郡)、高瀬神社(礪波郡)、雄山神社(新川郡)の4社(いずれも式内社)が「越中國一之宮」を称している。なお、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地は、現高岡市伏木(気多神社の所在地)とされている。
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二上山の東麓の高台に位置し、南南東1Kmに国衙跡とされる古古府がある。また東南500mには国分寺跡とされる薬師堂があり、越中国の中心部に位置している。
よって、当社は越中国一宮と称し、地名も一ノ宮。越中には、一宮と自称する神社が四社あるが、その一つ。国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだという。他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。
社伝によれば、養老元年(717)、能登・気多大社からの勧請。
能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。
延喜式には、「名神大社」とあるが、写本によっては射水神社が名神大社となっており、混乱が見られる。
『白山記』には、二上(射水)と新気多が勢力争いをして、新気多が勝ち、一宮となったとあるらしい。
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