とらのもんことひらぐう
虎ノ門金刀比羅宮のお参りの記録一覧
虎ノ門の交差点から近く、国道1号線に面しているお社です。隣のビルの陰にあります。
金比羅様と言えば四国ですよね。四国には20年以上前ですがお参りした事があります。
ですが虎ノ門にあるこちらは、前を何回か通った事はあるのですが、キチンとしたお参りは初めてです。
土曜日と言う事もあり、詣でる方も少なくしっかりお参りできました!
国道から石の鳥居を撮影。
手水舎です。
隣のビルが上を覆っているので屋根はないです。
2の鳥居から拝殿を望んでいます。
拝殿です。
御朱印です
東京メトロ銀座線虎ノ門2a出口から地上に出るとすぐです。
都会のビルに囲まれた場所にあります。
ビル風がとても冷たく感じました。
御朱印はお気持ちで、ということで300円をお渡ししました。
鳥居
ビルの一角
石柱
拝殿
社紋
授与所
銅鳥居
(港区指定有形文化財)
朱雀
白虎
青龍
玄武
過去参拝。令和6年初詣は正月4日に虎の門へ。平日なので仕事始めの挨拶後に職場から団体でお参りに来ている方が多かったです。写真にはありませんが、参道、つまりビルのアプローチにはキッチンカーも来ていました。正月らしさと東京の平日らしさが混在した風景がこの金刀比羅さんらしさだなと思いました。
ビル風が吹いていました
鳥居の扁額
鳥居の四神、辰年なので青龍。その下に玄武
参道はビルのアプローチです。
歩いてJR新橋駅へ。香川と愛媛の御当地お雑煮をいただきました。
Surrounded by modern skyscrapers and bustling commerce, the 400-year-old Kotohiragu Shrine provides a glimpse into another era. Built in the 1660, locals pray here to ensure family health, business success, and maritime safety. Nowadays, it also draws crowds for its sato kagura dance performances on the 10th of every month. This ancient folk dance dramatizes old myths, combining flutes, drums, and codified movements.
ずっと以前、この近くで働いていた時、数回お参りしたことがあり、その後は、この近くの虎ノ門病院に父が入院した際、父に渡すお守りを頂いたことがありましたが、それも隋分前のこと…
本当に久しぶりの参拝になりました。
ビルの中に佇むこちらは、近くで働いている方?が、お参りされる姿が、たくさん見受けられました。
御朱印をいただくのは初めてでした。書き入れていただけるのは嬉しいです。初穂料は決まっていないとのことで、500円納めさせていただきました。
右手の境内末社にもお参りをしました。
境内の中に、キッチンカーが二台、昼は少し過ぎていましたが、ベンチは休息を取るOLさんやサラリーマンの方が数名寛いでいて、都心ならではの風景でした。
お清めの塩も頂きました。
宝珠院様から前回のリベンジ参拝で日枝神社様へ行く途中にビル(琴平タワー)の吹き抜けに見えた鳥居⛩️
なんだろうと行ってみたらビルを抜けた所に金刀比羅宮様がありました😊
お参りして御朱印もいただきました😆
【虎ノ門 金刀比羅宮】
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝•三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣•殖産興業•招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。
ー虎ノ門 金刀比羅宮HPよりー
琴平タワーの吹き抜け部分にある正面鳥居⛩️
☆社号碑☆
☆手水舎☆
☆神楽殿☆
毎月10日には里神楽が奉納されます。奉納される時間は11時、12時、14時、15時、16時です。
1月、10月を除いた十日が日曜•祝日の場合はありません。
又、天候や人出等により当日変更•中止される場合もあります。
☆銅鳥居⛩️☆
文政四年(1821年)に奉納された明神型鳥居で、左右の柱上部には四神の彫刻が施されており大変珍しいものです。四神とは四方の守護神であり、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守る霊鳥霊獣です。
平成十三年(2001年)に港区指定有形文化財•建造物として指定されました。
☆御拝殿☆
先の戦災により焼失してしまいましたが、昭和二十六年(1951年)に拝殿と幣殿が再建されました。
ともに総尾州檜造り、銅板葺きの権現造りです。日本最初の建築史家、伊東忠太氏の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられています。平成十三年(2001年)に東京都選定歴史的建造物に指定されました。
尚、幣殿の奥に位置する本殿は昭和五十八年(1983年)に再建されました。
【御祭神】 大物主神
大国主神と少名彦神が国造りの際、事を為す前に少名彦神が海の彼方の常世の国に渡ってしまい大国主神が嘆いていたところ、遠い沖合いから海原を照らして光り輝きながら近寄ってきた、その神様が大物主神です。大和の三諸山(三輪山)にお祀りされた神様で、後に 和光同塵わこうどうじんの御神意をもって讃岐国の金刀比羅宮(本宮)に顕現されました。『日本書紀』では大国主神の異称として、『古事記』では大国主神の和魂にぎみたまとして記されています。
崇徳天皇は鳥羽天皇の皇子で、保安四年(1123年)に第75代の天皇として即位され、永治元年(1141年)に上皇となられました。
保元元年(1156年)の保元の乱の厄により讃岐国へ遷られ、その後も讃岐国で過ごされた崇徳天皇は、象頭山中腹に鎮座する金刀比羅宮(本宮)を日夜崇敬なさっていました。長寛二年(1164年)に崩御される前年には参籠し、荒行をなされたと伝えられております。
46歳で崩御された翌年の永万元年(1165年)、その不遇な生涯と崇敬の篤さを偲び、金刀比羅宮(本宮)の相殿にお祀りされることとなりました。
☆参集殿☆
☆喜代住稲荷神社☆
☆結神社☆
本殿向って右側にある二つの小さなお社。その左側が『 結神社むすびじんじゃ』です。その縁起は定かではありませんが、江戸時代、良縁を求める多くの女性により厚い信仰を集めていました。『新撰東京名所図会』にも当時の華々しい一面が記されています。
その頃、良縁祈願に訪れた女性たちは、この結神社の前で自らの黒髪を一部切り取り、或いは折り紙を持参し、社殿の格子や周りの木々にそれらを結わい付け良縁を願い、成就させました。
☆手水舎☆
裏鳥居側の手水舎
☆裏鳥居⛩️☆
23.03.08。東京メトロ銀座線「虎ノ門駅」2a出口より徒歩1分。港区虎ノ門1丁目のオフィスビル街に鎮座。
御祭神 大物主神
崇徳天皇
創 始 江戸前期の万治3年(1660年)
社格等 旧府社
例祭日 10月9日・10日(大祭)
毎月10日 月次祭
【由緒】〜当宮HPより〜
万治3年に讃岐国丸亀藩主であった京極高知が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝7年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門)に鎮座致しました。爾来、江戸市民の熱烈なる要請に応ええ、毎月10日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は”金毘羅大権現”と称されていましたが、明治2年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治22年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
本日は虎ノ門で人と会う約束があり、その前に当社を参拝。高層ビルの1階広場を境内に持つ都心ならではの景観が新鮮でした。
正面鳥居
社号標
参道
手水鉢
センサー式でした。
神楽殿
銅鳥居
安政4年(1821年)奉納。
港区指定有形文化財(建造物)。
柱には四神の彫刻。
↓
百度石
港区文化財総合目録に登録。
拝殿
昭和26年(1951年)再建。
東京都選定歴史的建造物。
本殿
昭和58年(1983年)に再建。
右サイドより。
喜代住稲荷神社
↓
結神社
良縁祈願で人気のようです。
社殿の右サイドに桜の木
見にくいですが、小鳥が!
社殿の裏手に
裏鳥居
↓
手水舎
↓
こちらもセンサー式でした。
水盤
社務所
直書きの御朱印を拝受しました。
正面入り口遠景
虎ノ門琴平タワーのビル1F
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