ぞうじょうじ
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増上寺ではいただけません
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増上寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2022年08月06日(土)
参拝:2022年8月吉日
宝珠院様にお参りしたあとに、増上寺様へ行きました😊
伺った日(8月1日)は大本山増上寺88世八木季生台下の御退任(7月31日付)に伴い、東京教区八王子組極楽寺住職 小澤憲珠師が89世法主として御就任。入山式が増上寺にて執り行われました。
17時の鐘撞きを観ることができました😆
とても良い音でした
伺った日(8月1日)は大本山増上寺88世八木季生台下の御退任(7月31日付)に伴い、東京教区八王子組極楽寺住職 小澤憲珠師が89世法主として御就任。入山式が増上寺にて執り行われました。
17時の鐘撞きを観ることができました😆
とても良い音でした
☆三解説門☆
建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
☆大殿☆
昭和49(1974年)年、大本山の念仏の根本道場として、
、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室があります。
昭和49(1974年)年、大本山の念仏の根本道場として、
、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室があります。
本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られています。
☆光摂殿(こうしょうでん)☆
平成12年(2000年)、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成しました。一階に講堂、三階に大広間を備えています。
平成12年(2000年)、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成しました。一階に講堂、三階に大広間を備えています。
☆幼少の法然さま☆
☆増上寺会館(寺務所)東棟·中棟·西棟☆
昭和36年(1961年)に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11年(1999年)に建立されました。
昭和36年(1961年)に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11年(1999年)に建立されました。
☆大殿土瓦☆
☆安国殿☆
戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂『安国殿』としました。老朽化のため、平成23年(2011年)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立されました。
戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂『安国殿』としました。老朽化のため、平成23年(2011年)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立されました。
阿弥陀如来立像、脇陣には家康公肖像画、徳川家御歴代並びに御一門の尊霊の御位牌、皇女和宮さまの等身大の御像等が祀られています。
☆西向聖観世音菩薩☆
☆鐘楼堂☆
寛永10年(1633年)の建立ですが、現在の鐘楼堂は戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元(1673年)にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。 朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。
寛永10年(1633年)の建立ですが、現在の鐘楼堂は戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元(1673年)にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。 朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。
お坊様の足元に何か置いてあり、鐘を撞く度にしゃがんでずらしていました。鐘を撞いた回数がわかるようにしているようです😄
☆黒門☆
慶安年間(1648年~1652年)、三代将軍家光公の寄進·建立とされています。 御成門交差点付近の芝公園·みなと図書館·御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55年(1980年)に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
慶安年間(1648年~1652年)、三代将軍家光公の寄進·建立とされています。 御成門交差点付近の芝公園·みなと図書館·御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55年(1980年)に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
☆増上寺·慈雲閣(開山堂)☆
この御堂は、平成元年(1989)増上寺開山·酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山堂の再建を企画、建築されました。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師·聖冏(しょうげい)上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されています。
安国殿の旧社殿
焼失した開山堂は、1616年(元和2年)に徳川家康像を安置するため建てられた安国殿だった建物。
1633年(寛永10年)に三代将軍家光が新社殿を建立したことにより、旧社殿が開山堂となった。
安国殿は、明治の神仏分離で東照宮となっている。
この御堂は、平成元年(1989)増上寺開山·酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山堂の再建を企画、建築されました。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師·聖冏(しょうげい)上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されています。
安国殿の旧社殿
焼失した開山堂は、1616年(元和2年)に徳川家康像を安置するため建てられた安国殿だった建物。
1633年(寛永10年)に三代将軍家光が新社殿を建立したことにより、旧社殿が開山堂となった。
安国殿は、明治の神仏分離で東照宮となっている。
☆旧台徳院霊廟惣門☆
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)。
台徳院は 秀忠の院号。
霊廟は、秀忠が死去した1632年(寛永9年に増上寺境内南側に建立されました。
徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものでしたが1945年(昭和20年)の東京大空襲で大部分が焼失。
惣門・勅額門・御成門・丁字門が残されました。
惣門は現地に保存されましが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年(昭和35年)に埼玉県所沢市の狭山不動寺へ移築されています。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)。
台徳院は 秀忠の院号。
霊廟は、秀忠が死去した1632年(寛永9年に増上寺境内南側に建立されました。
徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものでしたが1945年(昭和20年)の東京大空襲で大部分が焼失。
惣門・勅額門・御成門・丁字門が残されました。
惣門は現地に保存されましが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年(昭和35年)に埼玉県所沢市の狭山不動寺へ移築されています。
通年御朱印 『黒本尊』
通年御朱印
御朱印袋も素敵です
御朱印袋も素敵です
おまけ
『大本山·増上寺 三縁クッキー』
お煎餅に見えますが少し硬めのクッキーです🍪
プレーンとチョコどちらも美味しかった😆
『大本山·増上寺 三縁クッキー』
お煎餅に見えますが少し硬めのクッキーです🍪
プレーンとチョコどちらも美味しかった😆
すてき
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