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岩倉大権現について

朝日森天満宮など佐野の多数の寺社縁起となっており、佐野氏・藤姓足利氏などの家祖でもある、怪力士 藤原家綱公を祀る霊廟

栃木県のおすすめ3選🎏

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名称岩倉大権現
読み方いわくらだいごんげん

詳細情報

ご祭神《主》莉権頭家綱霊社・岩倉宮・山神社・地蔵菩薩・その他
創建時代天承元年(1131年)
創始者大沢一族
ご由緒

岩倉大権現は、藤原秀郷八代の孫 従四位上足利又太郎壹岐守藤原家綱を祭り、次のように伝承されている。
家綱は身長が三メートルもある大巨人で、日本無双の大力を持ち文武の道に秀でた武将であった。
父成行の後を次いで足利城主となってから、民部大輔という役に任ぜられ、よく忠勤に励んだので朝廷よりの信頼が厚くなり、一族の勢力は次第に広まってきた。
ところが同格の者がねたみ、讒言したので、領地を没収され九州大宰府へ流されてしまった。
配所にあること三年余り、天満宮に無実の罪が早く晴れて帰れるよう一心になって祈願したその甲斐があって満願の日に霊験が現れた。 勅使が来て「無実の罪は晴れた、急いで同行せよ。都では今お前の力を必要としている」と申された。
喜び勇んで都へ上った家綱を待っていたのは、朝鮮の使者が連れてきた三人の力士と相撲を取ることであった。使者からはこの相撲で日本側が負けたら、今後日本から朝鮮へ貢物を納めてもらいたいと申し入れられ、負ければ日本国末代までの恥、負けられない勝負である。
勝負の場所は京都三條柳の馬場が選ばれた。公卿、諸大名など大勢の観衆の中を、新しく造られた土俵中央に出た家綱は、蛇慢、我慢、岩幕三人の朝鮮の力士を一緒に対手にして、大力に物をいわせて一瞬の間に打ち負かしてしまった。
時は元永二年(1119)のことである。面目をほどこした家綱は、恩賞を受けて晴れて故郷足利へ帰り、廟を建てて天満宮を祭り、また保安二年(1121)三月二十二日には、佐野庄山越村明菊山の鎮守加茂別雷大明神に天満宮を合祀し熱心に崇拝した。
家督を子俊綱に譲ってから佐野庄能忍地村(田沼町田沼総合グランドの辺り)に館建てて住み、天承元年(1131)十二月二十三日永眠された。御遺言により明菊山加茂別雷大明神の傍らの岩窟に葬り、廟を築き、岩倉大権現と称した。 家綱は死後もこの地に在って、加茂別雷大明神の祭神と共に近在の守護とその発展を悲願としていたのである。
付近一帯には、秋に雷電菊が美しい花を開き境内には金明水の池を称する水のかれることのない泉があって、ここから流れ出る水は山越以南の水田を潤していた。また、この水は酒造用としても珍重された。
この地方では相撲興行がある時、岩倉大権現に参拝しないと負けると言われていて、力士の参拝者が多かったとも伝えられている。
家綱は子が多く、俊綱、有綱、郷綱、成次、成実、高綱等は知勇の優れた武将となって、それぞれ各地で活躍した。
大沢一族の祖は、家綱に仕えてよく忠節を尽くし、子孫は代々明菊山麓に住み祖先の遺志を継いで家綱の廟墓を守り、地域の開発と振興に貢献し反映してきた。
十数年前から開発の波に乗った採石業のために、加茂別雷神社は移転のやむなきに至り岩倉大権現の石祠も参道などにあった石仏と共に下ろされ、大沢一族の手によって役の溜の西山麓に手厚く祭られている。
(神社案内板より)

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