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寿徳寺ではいただけません
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じゅとくじ|臨済宗建長寺派福田山

寿徳寺
栃木県 富田駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
パーキング
駐車場
あり

あり

寿徳寺について

田中正造の6つの分骨地の1つ。 平成元年に新たに判明した分骨地。
また、従来五ヶ所と信じられていた分骨地が実は七ヶ所あることも明かとなり新たな謎も生まれた

栃木県のおすすめ3選🎎

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くし
2024年02月08日(木)
1450投稿

宝蔵寺・人丸神社のすぐ近くだったので4年ぶりに再参拝しました。
最近このお寺の別院を見つけたのでこの後拝む予定だったのと、まだ寺社についてあまり知らない時に来たので、目が肥えた今となって改めて見てみたいなど、いろいろ思うところありましてw

ここは特に対象となる霊場もなく、御朱印も御本尊の一種類のみなので今回は受印せず参拝のみ。
田舎の目立たない所にあるお寺ですが、大仏があったり結構見処が多い。
平成元年に新たに見つかった田中正造分骨地の一つであり、さらにもう一つ所在不明の分骨地があるということが判明した歴史ロマン溢れるお寺です。

前回行った時はただ漠然と御朱印もらいに行っただけですが、やはりこういう知識が身に付くと、寺社参拝もより一層楽しくなりますねw 

寿徳寺(栃木県)

まずは駐車場横にある弁天社から参拝
ここは十数年前までは「薬師神社」と呼ばれていたらしい

寿徳寺(栃木県)

ちょっと見切れてしまってますが、弁天像の上に厨子があり、そこに薬師如来と十二神将が祀られてたので「薬師神社」となってたようです

寿徳寺(栃木県)

一旦入口に戻って入り直します

寿徳寺(栃木県)

入口左には「国家安全」と彫られた如意輪観音

寿徳寺(栃木県)

右は苔むしたお地蔵さん

寿徳寺(栃木県)

参道右には覆屋に多数の石仏や供養塔が納められてます

寿徳寺(栃木県)

お地蔵さん・如意輪観音・馬頭観音・庚申の青面金剛など、民間信仰の仏像がズラリ

寿徳寺(栃木県)

左から二番目は猿田彦大神
これも民間信仰でよく見ますね

寿徳寺(栃木県)

一つ変わった神様が・・・楠日堅宮大神?(・・;)
ちなみにこれをアップで撮った瞬間、屋根から残雪がドサッと一気に落ちてビビりました(((; °Д°)))

寿徳寺(栃木県)

真ん中に見事なハート形の石祠♥️ 縁結びの御利益で売り出せばいいのにw
横の稲塚(積塚?)大明神という神様も気になります

寿徳寺(栃木県)

山門左側には水子地蔵と奉納地蔵
ここはもう梅が満開ですね♪

寿徳寺(栃木県)

右は個別名付きの六地蔵

寿徳寺(栃木県)

彼岸橋と山門

寿徳寺(栃木県)

龍が巻き付く浄水

寿徳寺(栃木県)

田中正造分骨墓の一つに墓参(。-人-。)

寿徳寺(栃木県)

正造翁の墓の横に大きな地蔵座像
願主温州(・_・?) ・・・・・みかん?(違)

寿徳寺(栃木県)

大宝塔

寿徳寺(栃木県)

このお寺には大仏があります
由緒によると江戸時代の作

寿徳寺(栃木県)

本堂

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名称寿徳寺
読み方じゅとくじ
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号0284-71-9130
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.jyutokuji.or.jp/sp/#mobile-menu

詳細情報

ご本尊《本尊》釈迦牟尼仏
《露坐》大仏
《鎮守社》弁財天
山号福田山
宗旨・宗派臨済宗建長寺派
創建時代嘉元元年(1303年)
開山・開基建長寺第十一世 大通禅師
ご由緒

壽徳寺は、山号を福田山と称し、鎌倉時代の嘉元元年(1303)に創建されました。平成25年(2003)で創建710年になります。宗派は禅宗の中の臨済宗です。本山は鎌倉の建長寺です。
壽徳寺の歴代和尚からは、近代になって2人の大本山建長寺宗務総長を輩出しています。24世有隣和尚と27世寛邦和尚の2人です。なお、25世元直和尚も建長寺の参事を勤めるほどの高僧でした。
壽徳寺は、開創当時から大伽藍を擁していたようですが、寛永15年(1638)2月に災害のために焼失し、天明時代(1780年代)に再建されました。
このような災害や火災が二度と起こらないように「鎮守と泰平」を懇願して境内に大仏が建立されました。寛政10年(1798)のことです。 大仏様は、壽徳寺の法灯を守り、人々の安泰と平和を願い、今も本堂前に鎮座しております。
しかし、再び大正5年(1916)7月に落雷のため全焼しています。
25世元直和尚の代に本堂を再建し、27世寛邦和尚の代になり、庫裏を新築し客殿を建設し、さらに平成3年(1991)には大本堂を新築し、大いに旧観を復しました。28世有節和尚の代になり、平成16年(2004)に山門を新築しました。平成17年(2005)には合祀廟を建立し、現在に至っております。

【田中正造顕徳会の由来】
足利市野田町の、渡良瀬川堤防を背にする寿徳寺に、田中正造が分骨されている事実が世に出たのは、平成元年(1989年)のこと。
前寿徳寺住職大蔵寛邦和尚が、当時の寿徳寺総代委員長室田仁氏に「本堂竣工後、墓畔に田中正造翁の顕徳碑を建てるつもりだ」と語ったことに始まる。
寛邦和尚は先代の元直和尚が言い残した事として、次のように話した。
「大正2(1913)年10月12日、惣宗寺の本葬に参加した後、室田忠七、稲村与市、稲村忠蔵、設楽常八らと熟議して、翁の分骨を寿徳寺開山禅師の墓に納めることとした。
久保田町の本源寺和尚、県町の淨徳寺和尚も参列して、証拠を残さぬよう紙位牌でこっそり埋骨式を済ませた。分骨は油紙にくるんで納めてある。 以来、9月4日には、必ず墓前で供養してきた。以後も続けるようにいわれ、だから寺だけで行ってきた」
と。分骨地は五ヶ所と信じていた者たちにとって、青天の霹靂であった。
だが、調査の過程で、分骨責任者の原田定助、政七の周辺では、七ヶ所に分骨したといわれている事実も知った。明治の男たちは黙したままで逝ってしまった。謎は一つ解け、ひとつ生まれた。
久野地区の人々は、室田仁氏、山田秀穂氏を中心に顕徳会をつくり、毎年3月第一日曜日に会合し、法要を行うこととした。1993(平成5)年には寿徳寺境内に正造翁の顕徳碑が建った。
初代顕徳会会長の室田仁氏は、正造の分骨を思いどうりに自分たちの寺に納める「離れ業」をやってのけた鉱毒被害地久野村リーダー室田忠七の孫である。

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