たがたいしゃ
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多賀大社ではいただけません
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多賀大社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年05月09日(月)
参拝:2022年4月吉日
【近江國 式内社巡り】
多賀大社(たが・たいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社。式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命。旧称は「多賀大明神」、別称は「お多賀さん」。「おたまじゃくし」という単語は、当社がお守りとして授けるしゃもじが由来とされる。
創建は不詳。奈良時代712年編纂の『古事記』写本の真福寺本には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、これを当社に関する記述とする説がある。ただし『日本書紀』には、伊弉諾尊が、国産み、神産みを終え、最初に産んだ淡路島に幽宮(かくりみや:終焉の住まい)を構えたとの記述があるため、「淡海」は「淡路」の誤写であると考える説もある。平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「近江國 犬上郡 多何神社 二座 小」に比定されている。
戦国時代には神仏習合が進み、近江守護・六角高頼が神宮寺として天台宗・不動院を建立すると、神宮寺配下の坊人が全国にお札を配って信仰を広めたため、当社は中世から近世にかけて伊勢神宮、熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。俗謡では「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」と言われた。また鎌倉期以降、僧・重源の逸話から長寿祈願の神として信仰され、豊臣秀吉は1588年に母・大政所の延命を祈願し、米1万石を奉納した。江戸時代になると1615年に社殿を焼失したが、徳川秀忠により社領350石の寄進を受け、徳川家光が1638年に社殿を再建した。1651年に彦根藩主・井伊直孝により社領150石の寄進を受け、その後たびたび火災や暴風による倒壊などの災難に遭うが、その度に幕府と彦根藩の厚い保護により再建してきた。明治に入り、近代社格制度のもと、最初県社兼郷社に列し、最終的には官幣大社に列格した。
当社は、近江鉄道彦根・多賀大社線・多賀大社前駅の東方600mの平地にある。境内はかなり広大で南面は東西に300m以上ある。東寄りに正規の入口があって、鳥居をくぐり、太閤橋を越え、御神門を抜けると、広いスペースの向こうに左右翼殿が長く伸びた豪壮な拝殿が現れる。周りには多くの境内社が立ち並び、まさに大社の外観。さすが昔からの信仰の篤い神社で、しっかり見て廻るのにはたっぷり時間がかかる。なお、昔は相当な観光地であったようで、境内の南側には門前町があり、飲食店、元旅館などが並んでいる。
今回は、近江國の式内社、旧官幣大社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は平日の午後で、境内には参拝者がぱらぱらと訪れていた。
境内南端東寄り入口の<鳥居>と<社号標>。目の前に「絵馬通り」という門前街があって、食べ物屋、お土産屋が並んでおり、すでに大社、観光地のの雰囲気。
鳥居前左側の<狛犬>。
鳥居前右側の<狛犬>。
鳥居をくぐったところにある<神橋>。形態は太鼓橋、そり橋。豊臣秀吉が当社に寄せた信仰から<太閤橋>とも呼ばれる。橋自体は江戸時代初期、寛永年間(1624年~1644年)の造営。
神橋を越えた右側で、神橋に向かって建っている<愛宕神社>(左)と<秋葉神社>(右)。
神橋を越えた左側で、神橋に向かって建っている<天満神社>。
神橋を越えたところにある神域入口の<御神門>。
御神門をくぐって、参道左側にある<手水舎>。
手水舎近くから見た<社殿>全景。拝殿両側の翼殿が大きく豪壮な構え。
手水舎近くから見た左前方の<社務所>。御朱印はこちら。
手水舎近くから見た右前方の景色。能舞殿(※)や境内社などが見える。
※はじめ神楽殿かと思ったが、当社では拝殿と幣殿の間にある。
※はじめ神楽殿かと思ったが、当社では拝殿と幣殿の間にある。
先に<拝殿>にて参拝する。当社の社殿は本殿が昭和戦前1930年の新築で、その他は昭和の大造営、平成の大造営での建立。
<拝殿>正面。広々として豪華。
拝殿から振り返って見える景色。
まずはじめに、社務所の授与所にて御朱印を拝受。
ここから拝殿をじっくり見て廻る。まず拝殿左側(西側)の翼殿の門。
中央の<拝殿>。
拝殿右側(東側)の翼殿の門。
右側翼殿の右側にある<熊野神社>(左)と<三宮神社>(右)。この後、境内の北東側を見て廻る。
熊野神社、三宮神社の社殿の右手にある<金咲稲荷神社>の鳥居。
最初の鳥居をくぐって直進すると右側に手水舎があり、その先参道左側に千本鳥居が現れる。
千本鳥居が終わったところで参道が右折し、その突き当りにある<金咲稲荷神社>の社殿。
金咲稲荷神社近くから見える、本社の<本殿>。
熊野神社・三宮神社社殿、金咲稲荷神社鳥居の南側にある<寿命石>。
僧・俊乗坊重源が三度当社に参籠し、20年の寿命延長を感得した言い伝えがある。
白石に願いを書いて、寿命石に載せると御利益があるとのこと。
僧・俊乗坊重源が三度当社に参籠し、20年の寿命延長を感得した言い伝えがある。
白石に願いを書いて、寿命石に載せると御利益があるとのこと。
寿命石の東側にある<竈神社・年神神社>と<子安神社>。この後、境内の南東側を見て廻る。
<さざれ石>。
さざれ石近くから見た<社殿>全景。
<古札納め所>と<奉納樽>。
<能舞殿>は、境内東側で最も大きな建物。
能舞殿前から見た<社殿>全景。何度見ても良い。(o^―^o)
能舞殿の南側にある<神馬舎>。
神馬舎近くに青銅燈籠と絵馬掛けがある。
遠くの<拝殿>を望む。この角度からだと、拝殿、神楽殿、幣殿、本殿が縦に並んでいるのがよく見える。
※当社では、拝殿と幣殿の間に神楽殿がある珍しい形式。びっくり。
※当社では、拝殿と幣殿の間に神楽殿がある珍しい形式。びっくり。
当社の絵馬は<しゃもじ>の形。
手水舎近くを通って、境内西側に移動しながら<社殿>を望む。
江戸時代初期に徳川幕府による二度の大規模造営を記念した<大釜>。
大釜の西隣の<神輿庫>。毎年4月22日の古例大祭(他がまつり)の神輿を収めている。
神輿庫の西隣の<鐘楼>。神仏習合の名残り。梵鐘は戦国時代1555年の銘。
鐘楼の西隣の<太閤蔵>。1588年に太閤豊臣秀吉が生母・大政所の病気平癒を当社に祈願し、全快の礼に米1万石を奉納したが、その寄進で建てた蔵。
社務所の西側にある<参集殿>。
参集殿の門の西側にポツンとある<夷(えびす)神社>。
境内の西端にある<日向神社>と<神明両宮>。日向神社は、なんと延喜式内社。
この南側には鳥居、神橋、社号標、狛犬、手水舎があり、まるで独立した神社みたい(実際は本社の西参道入口)。(^▽^)/
この南側には鳥居、神橋、社号標、狛犬、手水舎があり、まるで独立した神社みたい(実際は本社の西参道入口)。(^▽^)/
すてき
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