ひょうずたいしゃ
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楽しみ方兵主大社のお参りの記録一覧

今回は守山市の所用の後に出かけました。曇天でしたがなんとかもってます。
まずは久しぶりに兵主大社へ。創建は景行天皇58年だそうですから四世紀中ごろ。めちゃくちゃ古い。
境内は広いですね。仰ぎ見るような楼門を潜って拝殿へ。無事参拝。
庭園が有名だそうですが、この日は閉まってました。七五三のご家族がちらほら。写真撮影ににぎやかでした。
御朱印。
境内鳥居。石鳥居は少々離れていて今回はパス。
代名詞の楼門。1550年築。翼楼がついてます。
参道を進みます。
拝殿。
社務所。御朱印はここです。
狛犬。包帯まみれ?と思いきや、「祈祷布」というものだそうで、病やけがの人がその部位に巻くとご利益があるそうです。
こちらも同じです。
本殿。
摂社・乙殿神社。

こちらも8月にご当地の御上神社をお参りした際に立ち寄れなかったので、今回
リクエストさせていただいたお社になります。
野洲の田畑が広がる平地にお社の森がぽつんとある風景は、大和神社に似ていました。
由緒書によると、景行天皇時代に「八千矛神」(やちほこのかみ。大国主命のこと)を
奈良に祀ったのが起源で、ご当地に鎮座されたのは欽明天皇時代(718年)だったそうです。
「兵」の「主」の名前ゆえ、中世から徳川の時代に移るまで、源頼朝、足利、徳川などから
たいへんな寄進を受けたそうで、庭園含め文化財を多く残しているお社です。
全国におよそ50社ある「兵主神社」のご本社になります。
御朱印です。ご神紋は「亀甲」に「鹿角」になります。
こちらにも建部大社どうようの案内版がありました。
楼門「滋賀県有形文化財」
由緒書です。
楼門を入るとまっすぐ先にかやぶきのご拝殿があります。
手水場。「花手水」になっていました。これだけでもご神職の方々のお心使いが
感じ取れますね。
ご拝殿です。狛犬に願いを書いた包帯がぐるぐる巻かれているのは、身体の治したい部分にしているとのことです。
国指定名勝になっている庭園。11月中は拝観料無料で入場できました。運良い・・・
「近江の苔寺」という別名もあるようで、美しい庭園でした。
紅葉には少し早いか・・・色づき始めた頃ですね。

湖南めぐりから守山へ。兵主大社に参拝しました。
こちらは街中で平坦ですので動きやすいです。鎮座は718年。全国に50社ある兵主神社のうち3社の名神大社のひとつです。社名から中世には源、足利といった武士の信仰が厚く保護されたようです。
境内は広大で静かですので、ゆっくりした時間を過ごせます。
灯籠を抜け橋を渡って鳥居へ。
その先には朱塗りの楼門。立派です。
乙殿社。
奥に拝殿、右に社務所。
拝殿の前へ。
本殿とテントで繋がってます。
旧護摩堂。
本殿横の大神宮。
由緒書き。
参集殿。

【近江國 式内社巡り】
兵主大社(ひょうず・たいしゃ)は、滋賀県野洲市五条にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。主祭神は八千矛神(大国主命)、配祀神は手名椎神、足名椎神。正式名称は「兵主神社」だが、通常は「兵主大社」と称する。当社の「八ヶ崎(やつがさき)神事」は日本遺産になっている。
社伝によると、第12代景行天皇の御代128年に天皇は皇子・稲背入彦命に命じ大和國穴師(奈良県桜井市、現・穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ崇敬した。近江國高穴穂宮への遷都に伴い、穴太(滋賀県大津市穴太、元兵主)を社地と定め遷座した。のち欽明天皇の御代(539年~571年)播磨別らが琵琶湖東岸に移住する際、再び現在地に遷座し、奈良時代の718年社殿を造営したとされる。平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「近江國 野洲郡 兵主神社 名神大」に比定されている。また、1180年には花山天皇から正一位勲八等兵主大神宮の勅額を下賜されている。中世には「兵主」は「つわものぬし」と読めることから武家の信仰を受け、源頼朝による神宝の寄進、足利尊氏による楼門の造営があり、江戸時代には徳川将軍家から社領の寄進等、厚い保護を受けた。明治時代に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR琵琶湖線・野洲駅の北方6kmの耕作地の端の平地にある。境内はかなり広くて、境内南端の鳥居からだと、北に300m、西に150m進んでやっと社殿に到達する。立派な楼門、広い参道、大きな社殿も素晴らしいが、有料拝観の庭園も見事。平安時代後期の作庭と言われ、国も名勝、日本遺産にもなってある。花が好きな人には気合の入った美しい花手水も必見。
今回は、近江國の式内社、滋賀県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は平日の午後で、参拝者は自分以外に数人見掛けた。
※神田神社(真野)の宮司さんに当社をおすすめされたが、その言に違わず素晴らしい神社だった。(o^―^o)
境内南東端入口全景。
<一之鳥居>と<社号標>。鳥居の先の果てが見えない。スゴイ!(^_^;)
ここからしばらく、参道の左側は中学校、右側は公道。
一之鳥居から北に300m(!)進むと参道は左に曲がる。正面は<二之鳥居>で、<太鼓橋>を渡って進む。
二之鳥居の左側の<狛犬>。かなり古いものなのか、修復跡がすごい。
二之鳥居の右側の<狛犬>。こちらは劣化が穏やか。
右側の<狛犬>の後ろにある<手洗御前社>。
二之鳥居をくぐって正面に建つ<翼殿付楼門>。戦国時代1550年の再建。社伝によると足利尊氏の寄進とされている。
右翼殿の上部には扁額が掛かっていて、左から順に<戸津神社>、<狩上神社>、<矢放神社>とある。
左翼殿には<矢取神社>、<浅殿神社>、<二ノ宮神社>とある。二ノ宮神社以外はいずれも聞き慣れない社号。氏子地域ごとの地名かな?(。´・ω・)?
楼門をくぐると、社殿まで広く長く真っ直ぐな参道が伸びている。
楼門をくぐってすぐ右手に鳥居が立っている。大きな境内社<乙殿神社>。社号標には「村社 乙殿神社」とある。元は別の場所にあって合祀したのかな。
<乙殿神社>の手水舎。
<乙殿神社>の社殿は瑞垣で囲われ、中門前で参拝する形式。
<乙殿神社>の社殿。右側の小社は<天満宮>。
参道を100mほど進むと右側にある<社務所>。近くには参集殿、斎館、参拝者休憩所(庭園資料館)がある。
御朱印および庭園の参観受付はこちら。
さらに進み参道左側にある<手水舎>。
とっても豪華で綺麗な<花手水>。
<拝殿>全景。江戸時代後期1843年の再建、1941年改築。間口十七間三尺、奥行四間三尺、入母屋造脇拝殿付。
左右に翌殿が広がり、造形も美しく立派。
拝殿前左側の<狛犬>。願い事と住所・氏名が書かれた白い紐が巻かれている。当社独特の風習なのかな。
拝殿前右側の<狛犬>。怪我人みたいでちょっと可哀想な見た目...(^_^;)
拝殿中央部全景。二重屋根。
拝殿から振り返った眺め。長い参道が抜けていて気持ち良い。
拝殿に向かって右手のエリアを見て廻る。こちらは「名勝 兵主神社庭園」の石碑と入口。ただ、実際の入口は拝殿に向かって左側(この後方)にある。
庭園入口の左側にある<神饌所>。
旧護摩堂の左側には<神武天皇遙拝所>と<祓所>。
祓所の左側にある<旧護摩堂>。不動明王立像を安置。江戸時代までは神仏習合が進んでいて、仏教色を残す多くの宝物が残存しているとのこと。
本殿を囲む瑞垣の外側に建つ境内社。<両皇太神宮>かな。
拝殿後ろの瑞垣で囲われた<本殿>。江戸時代前期1643年の再建。間口三間、奥行三間三尺、一間社流造。
ここで社務所に向かい、社務所から拝殿を望む。御朱印を拝受し、庭園の参観券を購入。
拝殿の左側にある小さな木製扉をくぐって庭園内に入る。
楼門と本殿を結んで軸とすると、現在の庭園はその南側のみだが、平安時代後期の作庭当時は北側にも対称形の庭園が存在したとのこと。
この位置からだと、大きな社殿全体が一枚の画角に入る。(^▽^)/

近江国野洲郡の名神大社です。『延喜式神名帳』に兵主神社は19社、そのうち名神大社は当社含め3社しかありません。
自然豊かな気品漂う神社です。
《鳥居と社号碑》
《表参道》
ちょっと長いです。
表参道には近所にある多数の神社の神輿や太鼓の配置を示すかのように建てられています。
ここの大祭に集まったりするのでしょうか。
《橋と鳥居》
こっちに駐車スペースがあります。
《境内図》
《楼門》
両側に回廊が取り付けられていて見た目以上に圧巻です。
《乙殿神社》
《表参道②》
初えびすの提灯が出てます。片付けてたので終わったのかな?
《手水舎》
吐水口は亀です。これは社紋に亀甲紋が使われてるのが理由です。、
《拝殿》
《本殿》
建築様式は流造に見えますが、両側の長さが同じなので切妻造で、特筆すべきは建物の大きさです。
実際見てみるとかなり大きいです。
《授与所》
☆チェックポイント!!
御朱印ですが、兵主大社さん御鎮座1300年を記念して、「兵いち御朱印巡り」というものが行われているそうです。
2つのルートで片道16、17社をサイクリングできる範囲で巡拝するもので、
気になる方は授与所にて申し出てみてください。
滋賀の帰り、たまたま通った道すがらに大きな神社を発見。
これも何かのご縁。参拝してきました。もう夕方遅かったので庭園は見学できませんでしたが平安期の庭園が発掘されて再現されているようです。
花の名所としても有名だそうで次回は春か秋に訪れてみたいと思います。
朱塗りの向こうに楼門
楼門 天文十九年(1550)
拝殿 天保十三年(1842)
本殿 寛永二十年(1643)
御朱印

神印が八葉鏡になっていて面白いですw
周囲は雲紋なんでしょうか?
神紋の亀甲の下の模様はなんだろうと思っていたら鹿角でした
印
亀甲に鹿角紋
兵主大社神璽
墨
近江国野洲郡
兵主大社

【夏休み琵琶湖編】
しかし今日はあっつい💦💦途中道の駅で体を冷やし次は兵主大社さんへ😊
めちゃめちゃ古いみたいで源頼朝や足利尊氏がいろいろ寄進したようです😅
神秘の平安の庭もありますよもちろん拝観料はいりますよここは拝観料やめて後のソフトクリーム代に回します😁
立派です🙇
亀とか龍とかいろいろあるなぁ😅
ありゃ💦
なんかめちゃめちゃ痛々しい狛さんです😅

#兵主大社
ご祭神はヤチホコの神。オオクニヌシの神のこと。
#八千矛神
古事記の国譲り神話だと戦わずに降参したような印象だが、オオクニヌシの神はいざ武器をとって戦えば非常に強い神様だ。ヤチホコの神やアシハラシコオの神という別名が、如実に示す。
日本書紀にはタケミナカタの神が登場せず、コトシロヌシの神が天孫に奉るべしと判断した時点で、国譲りが決まる。だがこの時、オオクニヌシの神は次のように言った。
「もし私が抗戦することを選べば、国中の神々は全員、あなた方に立ち向かうでしょう。ですが私はこれを回避します。誰も抵抗しますまい」
単に血を流すのを見たくない、という趣旨にも思える。しかし受け取り方によっては、「あまり横暴なことをすると――」と釘を刺したようにも聞こえる。真意は分からない。
別伝にはこんな話がある。フツヌシの神やタケミカズチの神から国を譲るや否やを問われると、オオクニヌシの神は「先に住んでいたのは我々だ」と難色を示す。フツヌシの神らはいったん、この回答を”たかまのはら”へ持ち帰る。するとタカミムスビの尊は交換条件を提示した。彼のために比ぶべきもののない立派な神殿を建てる、などの内容で、オオクニヌシの神はこれに満足して国譲りの要求を受諾した。
想像だが、彼の力にはタカミムスビの尊も一目置いていて、直接対決は何としても避けたかったのではなかろうか。

今日は兵主大社さんにお参りに出かけました。
バレンタインと言うことで花手水の真ん中に❤️にLOVEの文字があしらわれていました。
お参りを済ませて御朱印を頂きましたらチョコレートを頂戴しました😊
粋な計らいにニッコリしてしまいました。
とても立派な楼門でした。
カーネーションやアリストメリア、ダリア、小さな風船などが…
花手水の真ん中に真っ赤なカーネーションのハート♥️
ちっちゃなチョコレートを頂戴しました❤️
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