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石山寺ではいただけません
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石山寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年06月09日(水)
参拝:2021年4月吉日
石山寺は、滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院。山号は石光山。本尊は如意輪観世音菩薩。西国三十三所観音霊場13番札所。本堂と多宝塔が国宝。東大門、鐘楼、御影堂、蓮如堂、三十八所権現社本殿、経蔵、宝篋印塔が国指定の重要文化財。
寺伝によると、聖武天皇の発願により奈良時代の747年、東大寺を開山した良弁が聖徳太子の持念仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まり。正倉院文書によると、その後当寺の伽藍の整備は国家的事業として推進されたとしている。平安時代になると、聖宝、観賢、淳祐(菅原道真の孫)などの高僧が座主(ざす;住職と同義)となった。この頃、<石山詣>が宮廷の官女の間で盛んとなり、『蜻蛉日記』や『更級日記』などにも描写され、紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。『枕草子』にも「釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。」と記載されている。
現在の伽藍のうち、本堂阿1096年の再建、東大門、多宝塔は鎌倉時代初期に源頼朝の寄進による建立とされ、この頃、現在の寺観が整ったとされる。
当寺は琵琶湖の南端近くにあり、京阪石山坂本線の終点・石山寺駅から瀬田川西岸を1km弱南下した位置にある。入口の東大門は小山の麓にあり、小山全体が境内となっている。当寺は創建以降、兵火にあったことがないそうで、その分伽藍も古さ、由緒のようなものを感じる。
参拝時は週末の午前中で、多くの家族連れなどが参拝に訪れていた。
寺伝によると、聖武天皇の発願により奈良時代の747年、東大寺を開山した良弁が聖徳太子の持念仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まり。正倉院文書によると、その後当寺の伽藍の整備は国家的事業として推進されたとしている。平安時代になると、聖宝、観賢、淳祐(菅原道真の孫)などの高僧が座主(ざす;住職と同義)となった。この頃、<石山詣>が宮廷の官女の間で盛んとなり、『蜻蛉日記』や『更級日記』などにも描写され、紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。『枕草子』にも「釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。」と記載されている。
現在の伽藍のうち、本堂阿1096年の再建、東大門、多宝塔は鎌倉時代初期に源頼朝の寄進による建立とされ、この頃、現在の寺観が整ったとされる。
当寺は琵琶湖の南端近くにあり、京阪石山坂本線の終点・石山寺駅から瀬田川西岸を1km弱南下した位置にある。入口の東大門は小山の麓にあり、小山全体が境内となっている。当寺は創建以降、兵火にあったことがないそうで、その分伽藍も古さ、由緒のようなものを感じる。
参拝時は週末の午前中で、多くの家族連れなどが参拝に訪れていた。
境内入口の<東大門>。1190年造営、慶長年間(1596年~1615年)に大規模改修。三間一戸八脚門、入母屋造、本瓦葺。国指定の重要文化財。
東大門の天井。<石山寺>の扁額は小さく控え目。
左側の<吽形仁王像>。力強い。
右側の<阿形仁王像>。色の褪せ具合が美しい。
東大門をくぐったところ。しばらく参道がまっすぐ続く。桜がちらほら。
途中、参道右側に<寶印大黒天>の門。
<寶印大黒天>は950年ほど前(平安時代後期)に安置されたとのこと。
さらに進むと参拝受付(志納所)があり、それを越えると右手に<くぐり岩>が現れる。周辺の岩はすべて大理石で、池は奈良・天平時代からあるんだとか。
その先に<比良明神影向石(ひらみょうじん。ようごうせき)>。聖武天皇から東大寺大仏建立の黄金調達を命じられ、金峯山に籠って金剛蔵王の夢告を受け、当地を訪れると、岩の上に座した比良明神から、当地が観音の霊地であることを告げられたとのこと。
参道右側に<水屋>。
水屋の先にある地蔵堂。かすれた墨文字には<那*与市 地**>とある。那須与一のことか?
堂宇のあるエリアへの階段。
階段の途中左手にあるお堂。
階段を登り切ったところ。正面に天然記念物の<珪灰石(けいかいせき)>と、その上に<多宝塔>、左側には<蓮如堂>と<本堂>、右側には<観音堂>、<毘沙門堂>、<御影堂>がある。
石山寺を代表するカット。黒々とした<珪灰石>の上に、国宝の<多宝塔>が載っているように見える。
階段上がってすぐ右側の<観音堂>。西国三十三観音霊場の全ての観音を安置している。
観音堂の左隣にある<毘沙門堂>。江戸中期1773年の建立で、正面三間、側面二間、一重、宝形造、桟瓦葺。堂内に兜跋(とばつ)毘沙門天と吉祥天・善膩師童子(ぜんにしどうじ)の三体を祀る。毘沙門天像は平安時代後期の作で、国指定の重要文化財。
毘沙門堂の参道を挟んで左隣にある<御影堂(みえいどう)>。室町時代の建立で、正面三間、側面三間、宝形造、檜皮葺。弘法大師、良弁、淳祐の御影を安置。国指定の重要文化財。
<珪灰石>は、石灰岩に花崗岩が接触したことによる熱作用で変質したもの。 通常は大理石となるが、石山寺のように雄大な珪灰石となるのは珍しいのだという。この石が<石山寺>の名称の由来。
階段上がって左側にある<蓮如堂(れんにょどう)>。懸造、桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、妻入、桟瓦葺。慶長年間の境内復興の際に淀殿が三十八所権現社本殿の拝殿として造営された。国指定の重要文化財。
蓮如堂の右側を抜けると階段があり、その上に<本堂>がある。本堂の建立は不詳、奈良時代の761年ごろ拡張したことが正倉院文書に記されている。1078年に焼失し、1096年に再建されたのが現在の本堂。1602年に淀殿が改修。
本堂入口。真っ赤な<大提灯>が見える。堂内は撮影禁止。御朱印はこちら。
本堂の造りは、桁行七間、梁間四間、寄棟造の<本堂>と、桁行九間、梁間四間、寄棟造で懸造(舞台造)の<礼堂(らいどう)>と、その両棟を結ぶ<相の間>で構成される総檜皮葺の建物になっている。
本堂の造りは、桁行七間、梁間四間、寄棟造の<本堂>と、桁行九間、梁間四間、寄棟造で懸造(舞台造)の<礼堂(らいどう)>と、その両棟を結ぶ<相の間>で構成される総檜皮葺の建物になっている。
階段上がってすぐのところにある<紫式部の間>。紫式部が参籠し「源氏物語」を執筆した間。
本堂への階段上がって、右手上方にある<三十八所権現社本殿>。1602年建立。一間社、流造、檜皮葺。国指定の重要文化財。
三十八所権現社本殿から見た<本堂>。どの角度からも全体を見ることはできない。
三十八所権現社本殿の上方にある<経蔵>。桃山時代の建立と推定される。桁行三間、梁間二間、高床校倉、一重、切妻造、桟瓦葺。かつては国宝の淳祐内供筆聖教等を収蔵した。国指定の重要文化財。
経蔵と向かい合うように建つ<鐘楼>。源頼朝の寄進と伝わるが、様式などから鎌倉後期のものと考えられている。梵鐘には銘がないが平安時代の物と考えられている。国指定の重要文化財。
経蔵と鐘楼の間にある階段を登ると、国宝の<多宝塔>。
多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造の屋根を載せた二重塔。1194年、源頼朝の建立と伝わる。
内部の四天柱の柱絵と須弥壇上の快慶作の大日如来像はいずれも国指定の重要文化財となっている。
内部の四天柱の柱絵と須弥壇上の快慶作の大日如来像はいずれも国指定の重要文化財となっている。
多宝塔の右手離れた場所にある<若宮>。2002年の建立。祭神に天照皇大神を拝し、大友皇子(弘文天皇)を崇る。三十八所権現社が親神。
若宮から左に進んだ、見晴しの良い場所に建つ<月見亭>。保元年間(1156年~1159年)、後白河天皇の行幸以降、多くの天皇・皇后が訪れ、明治天皇、大正天皇、昭和天皇も行幸されたという。右側の建物は<芭蕉庵>。
月見堂の後方高台に建つ<心経堂>。1990年建立。
心経堂近くからの景色。桜が良い咲き具合~♪
このあと、本堂裏手境内を散策する。名前は分からないが、紫色が美しい樹木。満開の桜にも負けていない。
境内最奥部にある<光堂>。
光堂からの景色。眼下には梅園や牡丹園がある。
光堂の手前にある<紫式部像>。
山を下ってきたところにある庭園(無憂園)。
本堂と谷を隔てた<雅の台>という場所から見た舞台造りの<本堂>。
最初の階段近くまで戻って来て、島崎藤村ゆかりの<密蔵院>。
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惣一郎1269投稿
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