すぐろじんじゃ
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楽しみ方勝呂神社のお参りの記録一覧
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勝呂神社は、崇神天皇の御代に活躍された四道将軍・建渟河別命(たけぬなかわわけのみこと)が奉斎された陵墓の上に鎮座しています。
寛和2年(986)に加賀国一宮白山比咩神社の御霊を勧請し創建され、白山比咩大神様と配祀神として建渟河別命様と豊城入彦命様をお祀りしています。
平安時代後期、奥州平定に向かった源義家公が、建渟河別命の故事に倣い当社に参拝して戦勝を祈願したところ霊験があり、凱旋の折に報賽し社領を定められました。
鎌倉時代になると、吾妻鏡にその名を残すほどの勢力となった、武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏、とりわけ『須黒太郎恒高』は、当社を氏神として厚く信仰し、社領を加増するとともに健保9年(1213)に社殿を再建して「強い神」として尊崇し、社号を『勝呂白山権現』に改めました。
江戸時代においては3代将軍家光公より朱印状を受け、以後代々の将軍により社領安堵となります。延宝9年(1681)に現在の本殿が造営されています。
明治時代に社号を白山神社と改めますが、地内の無社格15社を合祀したのを機に、社号も古来の地名をとり『勝呂神社』とし、勝呂郷総鎮守として現在に至っています。
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母方の先祖のルーツである武蔵七党村山党のゆかりの神社を参拝したいと思いうかがいました。
ご由緒にも出てくる勝呂郷を本拠とした須黒氏は、村山党の山口氏(所沢市山口を本拠)から派生した一族です。彼らがやってくるまで、周辺の土地を開墾していたのは高麗王若光の末裔たちとの伝承があります。
この辺りには、埼玉県内最古といわれる奈良時代前期の寺跡『勝呂廃寺跡』や、勝呂神社古墳をはじめとする30基近い古墳があり、かなり古い時代から文化が開けていたことが知られています。
一説に、勝呂という地名は古代朝鮮語の『村主(すぐり)』が由来といわれます。渡来人の技術集団や鍛冶集団などの統率者や村長を意味する言葉です。それが転訛してスグル→スグロになったと考えられるそうです。
これらを鑑みるに、やはりお隣の高麗郡からの影響や関わりが強い地域なんですかね🤔
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勝呂神社(すごろ~)は、埼玉県坂戸市にある神社。旧社格は村社。主祭神は菊理姫命(くくりひめ)、伊邪那岐命、伊邪那美命、配神は建渟河別命(たけぬなかわわけ)、豊城入彦命(とよきいりひこ)。
社伝によると、平安時代中期986年に加賀国一之宮・白山比咩神社を勧請して創建。平安後期、後三年の役に向かう源義家が戦勝祈願し、その凱旋の折、奉賽し社領を定めた。鎌倉時代になると、武蔵七党の村山等に属した須黒(勝呂)氏が氏神として篤く信仰し、1213年に社殿を再営し、社号を「勝呂白山権現」と改めた。江戸時代になると幕府から朱印地5石を下賜し、1681年に現在の本殿が造営された。明治時代に入り、社号を「白山神社」と改め、近代社格制度における村社に列格した。
さらに1908年に地内の無社格15社を合祀し、社号を「勝呂神社」とし、勝呂郷総鎮守となった。
当社は、東武東上線・北坂戸駅の東方3kmの農耕地の端にある。社殿がひと際高い場所にあって、まるでお城の天守閣のようになっている。境内は旧村社として一般的な広さで草木は少な目。古木も見当たらず、その分境内の見通しがいい。
今回は、御朱印本に掲載されている人気神社として参拝することに。参拝時は週末の夕方で、参拝者は自分以外にはいなかった。(17時を過ぎ、社務所が閉まっていたため、御朱印を拝受できなかった...涙)
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