すぐろじんじゃ
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勝呂神社ではいただけません
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勝呂神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年08月05日(木)
参拝:2020年7月吉日
勝呂神社(すごろ~)は、埼玉県坂戸市にある神社。旧社格は村社。主祭神は菊理姫命(くくりひめ)、伊邪那岐命、伊邪那美命、配神は建渟河別命(たけぬなかわわけ)、豊城入彦命(とよきいりひこ)。
社伝によると、平安時代中期986年に加賀国一之宮・白山比咩神社を勧請して創建。平安後期、後三年の役に向かう源義家が戦勝祈願し、その凱旋の折、奉賽し社領を定めた。鎌倉時代になると、武蔵七党の村山等に属した須黒(勝呂)氏が氏神として篤く信仰し、1213年に社殿を再営し、社号を「勝呂白山権現」と改めた。江戸時代になると幕府から朱印地5石を下賜し、1681年に現在の本殿が造営された。明治時代に入り、社号を「白山神社」と改め、近代社格制度における村社に列格した。
さらに1908年に地内の無社格15社を合祀し、社号を「勝呂神社」とし、勝呂郷総鎮守となった。
当社は、東武東上線・北坂戸駅の東方3kmの農耕地の端にある。社殿がひと際高い場所にあって、まるでお城の天守閣のようになっている。境内は旧村社として一般的な広さで草木は少な目。古木も見当たらず、その分境内の見通しがいい。
今回は、御朱印本に掲載されている人気神社として参拝することに。参拝時は週末の夕方で、参拝者は自分以外にはいなかった。(17時を過ぎ、社務所が閉まっていたため、御朱印を拝受できなかった...涙)
社伝によると、平安時代中期986年に加賀国一之宮・白山比咩神社を勧請して創建。平安後期、後三年の役に向かう源義家が戦勝祈願し、その凱旋の折、奉賽し社領を定めた。鎌倉時代になると、武蔵七党の村山等に属した須黒(勝呂)氏が氏神として篤く信仰し、1213年に社殿を再営し、社号を「勝呂白山権現」と改めた。江戸時代になると幕府から朱印地5石を下賜し、1681年に現在の本殿が造営された。明治時代に入り、社号を「白山神社」と改め、近代社格制度における村社に列格した。
さらに1908年に地内の無社格15社を合祀し、社号を「勝呂神社」とし、勝呂郷総鎮守となった。
当社は、東武東上線・北坂戸駅の東方3kmの農耕地の端にある。社殿がひと際高い場所にあって、まるでお城の天守閣のようになっている。境内は旧村社として一般的な広さで草木は少な目。古木も見当たらず、その分境内の見通しがいい。
今回は、御朱印本に掲載されている人気神社として参拝することに。参拝時は週末の夕方で、参拝者は自分以外にはいなかった。(17時を過ぎ、社務所が閉まっていたため、御朱印を拝受できなかった...涙)
境内南端にある<鳥居>と<社号標>。
参道両側の2本の木の葉っぱでできたトンネルを抜ける。
階段を上がってすぐ左手にある<手水舎>。
階段を上がってすぐ右手にある<舞殿>。
参道進んで右側にある<社務所>。御朱印は(たぶん)こちら。
古墳の上にある<社殿>。神の社に近づく感じが分かりやすくて非常に良い!
階段手前左側にある<八幡社・金守稲荷社>。
階段手前右側にある境内社。表札はないが狐がいるので<稲荷社>。
階段を登る。
<拝殿>正面。扁額には<勝呂神社>の文字。
拝殿の左側にある<箭弓稲荷神社・氷川神社・熊野神社>。
拝殿手前右があにある<勝運霊石>。
拝殿右側にある境内社(?)。
拝殿前から来た道を見下ろしたところ。かなり景色が良い~♪
境内の北西部にある<鳥居>。当社は、境内南端と境内北西部、あと社務所脇の境内東部の3カ所に入口と<鳥居>がある。
すてき
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惣一郎1269投稿
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