こまじんじゃ
高麗神社のお参りの記録一覧(8ページ目)
高句麗滅亡とともに王族が倭国へ逃げてきました。時の朝廷は自らの権力を示すために、倭国の辺境の地、武蔵の国をあてがいました。
そうしてこの高麗の地に移り住んだ人々が建立したといわれています。
広い境内には、たくさんの参拝者が訪れます。
多分に漏れず私もランニングの際には必ずと言っていいほど立ち寄っています。
春には桜がとても美しいですので、興味がある方はぜひいらしてください。
桜吹雪が舞っております.
一斉に桜が咲きます
入口の鳥居を眺めております
高麗家の邸宅跡です。
今も見学できます。
イベントでは朝鮮半島の踊りが披露される事も
元々学校があったようです。
朝鮮半島出身で古代、日本に渡来した高麗王若光(こまのこしき じゃっこう)を祀る神社です。2015年の5月にお参りしました。
神社の公式サイトによると、続日本紀の記述では、西暦716年に関東一円から1799人の高句麗人を武蔵の国に移住させ、高麗郡を設置したとされます。郡の長官に任命されたのが若光という人物で、同じ名前は日本書紀には、その半世紀前に来日した高句麗の外交使節団の中に見えるとのこと。続日本紀には「従五位下の高麗の若光に王の姓を賜う」との記述があり、大和朝廷が称号を授与したようです。王(こきし)の姓は外国の王族の出身者に与えられていたものとのことです。若光が日本に来た後、高句麗は滅亡しています。
古代の朝鮮半島と日本の交流を、今に伝える場所と言っていいように思います。
【将軍標:高麗神社】
高さ10.5cmほど、茶色に彩色された木彫りの授与品。
それぞれに「天下大将軍」・「地下女将軍」と書かれています。
【高麗(こま)神社の由来】
高麗神社は高句麗から渡来した高麗王若光を祀った神社。
七世紀後半から関東一帯への高句麗渡来人の移住が本格化。
霊亀2年(716年)、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高句麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡を創建した。
当時、高麗郡を統治したのが高麗王若光。
若光の没後、郡民にその人徳を偲ばれ「高麗明神」として祀られたのが高麗神社創設の由来。
朝鮮では村のいたる所に「将軍標」が建っているそうで、悪魔退治、家内安全を祈願するため眼光鋭く恐ろしい形相に彫刻しているそうです。
残念ながら、こちらの将軍標は廃絶されたようで現在は授与されていません。
※詳しくはブログ「郷土玩具の杜」をご覧ください。
https://folktoys.blog.fc2.com/blog-entry-45.html
入手日:1993年
掲載されている内容は当時のものです、情報が古い場合がありますのでご了承下さい。
将軍標
将軍標(横から)
将軍標(後ろ姿)
将軍標の絵馬
将軍標
「天下大将軍」・「地下女将軍」
高麗(こま)神社
出世神社として知られる韓国ルーツの神社。
大きな駐車場が複数あって、混むときはとんでもなく混雑しそうな予感がします
本殿と授与所はちょっと高い場所に
左手山頂の水天宮、落ち着きます
尾崎紅葉の木が気になりました
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