みつみねじんじゃ
三峯神社埼玉県 三峰口駅
9:00~16:00
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楽しみ方御朱印(4種類)
三峯神社では、「三峯神社」3種類と、奥宮で1種類の御朱印がいただけます。
三峯神社の御朱印
中央に三峯神社の印。右上には、「奥秩父三峰」の印に重ねて、標高1100mの山中にあるので「登拝」の文字があります。

三峯神社参拝⛩️ 秩父巡り
秩父市街地から更に約1時間山道を登って到着🚙💨朝7時半頃だったのでまだ人はまばらでした。
到着時気温は3度、帰る頃は15度で山降りて秩父市街地は20度以上ありました。
山奥にありますが参拝者は多く、帰る頃には広い駐車場がほぼ満車、他県ナンバーも沢山停まってました。
今回は御眷属拝借していたのをお返しして、新たに御眷属お借りさせていただくのと、御祈祷を受けるために参拝しました🙏
気守りも新しいお守りをお受けしてきました。
奧宮登拝もしたかったのですが、今日は我慢してまた冬季閉鎖される前までに再訪して登拝したいと思います。
かっこいい✨
8時前のためまだほとんど人がいない
御眷属 オオカミさん🐺
奥之院遥拝殿への石段
山の上に奧宮があります。
遥拝殿からの景色
日本武尊像
こちらのオオカミさんはフォルムが丸い感じ
オオカミさん🐺
いよいよ拝殿が見えてきました✨
オオカミさん🐺
手水舎
豪華絢爛
天井には龍🐉
山の奥深いため水不足で水がなく、セルフお祓いするようになってました。
拝殿前には左右に御神木
豪華
右御神木
左御神木
極彩色がきれい🤩
拝殿内 御祈祷受けてきました。
拝殿横から
本殿
拝殿前の石に現れた龍🐲
神楽殿
更に進むと
縁結びの木が裏にあります。
遠宮
拝殿
オオカミさん達
遠宮拝殿から振り返り
沢山の摂社末社
奧宮参道入口
奧宮への一の鳥居
今日はここまで、奧宮登拝はまた日を改めて登拝します。
御朱印は書き置きのみ
御眷属拝借 御眷属を一年間お借りしてお守りいただきます。
昨年お借りした御眷属をお返しして、新たにお借りさせていただきました🙏
気守りも新しいお守りをいただき、交通安全ステッカーもいただきました。
ゲットしたお酒🍶

旅の最後🌿奥秩父『三峯神社』参拝
とにかく神聖な雰囲気✨沢山の凛々しい狼も素敵♪
念願が叶って素晴らしい御朱印帳も拝受 ٩(ˊᗜˋ*)و
圧倒されるスケール、建造物も景色も美しく圧巻!
厳かな雰囲気の中、身も心も浄化された感じです。
関東最大級のパワースポットとも言われるそうですが~行って納得 (^-^)
名物の胡桃味噌団子と焼き椎茸も美味しかった🎵
かなりの山奥で車が交差できない道幅の場所もちょこちょこ、、
帰りに秩父神社に寄る予定でしたが、高速渋滞予測で断念しました(涙)
迫力の美しい隨神門
この先はぐっと霊験あらたかな感じ~😌
奥宮遥拝殿からの景色
神々しい✨✨絶景✨✨
憧れの御朱印帳
立体的で素敵なデザイン🎵
かなり特殊な決まりがあって、1~2項には伊勢神宮の御朱印を拝受。
3項目に三峯神社でいただいた御朱印はを貼らねばなりません💦
困りました😰
御朱印は書置きのみ!
御朱印帳をいただいても書いてはもらえません😢
早く伊勢神宮に行かなければ💦
さぁ参拝へ!
三ツ鳥居と対の狛狼(?)さん
狼を神のお使いとする御眷属信仰🙏
凛々しいお姿のオオカミさん🎵
狼さんが日本武尊の道案内もしたとか~😄
鳥居の先は別世界
大きな木々の間を進みます
隨神門が見えてくる😄
こちらにも狼!
大きな石燈籠がズラリ、、人が小さく見える!!
雪が神聖な雰囲気を更に演出しているみたいな参道❄
巨大杉の根元には小さな祠🙏
途中にも狼さん🎵
鳥居も小さく見えますが、木が大きいのです😆
美しい青銅鳥居には立派な扁額もありました
手水舎も凄く素敵!
四方のデザインが違うのでじっくり見ると感動😍
鮮やかな極彩色に美しい彫刻✨
細かくて見ていて飽きない素晴らしさ🎶
拝殿の前の御神木のは大迫力😄
重忠杉とも呼ばれる鎌倉時代の武将・畠山重忠が植樹した大杉!
順番に列んで参拝
前の方の頭越しに美しい彫刻✨
御祭神は、伊弉諾尊に伊弉册尊、そして日本武尊🙏
拝殿の床に浮かび上がる龍🙏
すごい🐲!!
敷石の上にはしっかり龍が見えます✴
気付いた方もすごいですね🙌
祖霊社
國常立神社
摂末社が続く
奥には神楽殿
人と比べると大きさがわかります☺
奥宮遥拝殿
奥宮に向かってお詣り🙏
絶景でした✨✨✨
一休みで発見した自動販売機にも狼がいた😄
日本武尊は小高い丘に~
ヤマトタケル巨大像
すごく大きいが、写真からは伝わらず、、😓
晴天に飛行機雲まで見られて最高🙌
当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に窺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。
更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。
現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
歴史をもっと見る|| 名称 | 三峯神社 |
|---|---|
| 読み方 | みつみねじんじゃ |
| 参拝時間 | 9:00~16:00 |
| トイレ | あり |
| 御朱印 | あり 三峯神社は山上に位置することから、右上には『登拝』の文字が書かれています。アヤメとオオカミが描かれたアートな御朱印も書き置きでいただけます。 |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | あり |
| 電話番号 | 0494-55-0241 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | http://www.mitsuminejinja.or.jp/index.htm |
| お守り | あり |
| 絵馬 | あり |
| SNS |
| 全国東照宮連合会 第15番 |
|---|
| ご祭神 | 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉册尊 (いざなみのみこと) |
|---|---|
| 創建時代 | 111年(景行天皇41年) |
| 本殿 | 春日造 |
| ご由緒 | 当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。 降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。 こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。 三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。 後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に窺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。 更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。 現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。 やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。 以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。 |
| ご利益 | 金運商売繁盛厄除け家内安全 |
| 体験 | おみくじ食事・カフェ御朱印宿坊お守り伝説 |
| Youtube | |
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