しんめいしゃきゅうせき
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駐車場 | なし | ||
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御朱印 | - | ありません |
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「大坂三神明」と呼ばれる「朝日神明社」「日中神明社」「夕日神明社」。
このうちの「夕日神明社」の旧跡になります。
現在はここから西へ230mほどのところに鎮座する露天神社内に合祀されています。
露天神社での参拝を終え、次の目的地へと歩いて移動中にたまたま遭遇。
偶然というよりは、こちらに立ち寄るために吸い寄せられた感じでした。
嵯峨天皇の第十二皇子源融公が、平安時代の弘仁12年(821年)当時の西天満伊勢町の辺りにあった孤島に勧請されたのが当社の初めとされています。
天照皇大神と豊受大神を祀り、日本七神明の一つとされていました。
文治年間(1185年)には、源義経が、当社に参拝し願書を奉じたとのこと。
社殿が西向きだったことから「夕日神明社」と呼ばれるようになったそうです。
現在の露天神社内の社殿もそういえば西向き。。。
天保5年(1834年)の火災にて社殿が消失。
その後明治42年(1909年)の「北の大火」でも被災し、その翌年に露天神社に合祀。
旧跡と言えども、とても大切にされているようでした。
今はこの石碑を残すのみ
歴史
社傳を按ずるに嵯峨天皇の皇子源融公弘仁十三年當時の西天満伊勢町の邊りにありし孤島に勧請し給ひしもの當社の初めなり。
天照皇大神、豊受大神を祀り日本七神明の一なり。(東京芝神明宮、京都松原、同東山、加賀の金澤、信濃安曇、出羽の湯殿山神明宮)
文治年中(1185)源義経が梶原景時と逆魯のことで論ぜし時、風波鎮護の祈願を懸け願書を収む。
後醍醐天皇の嘉暦年中1326)勅願所と定められ、度々行幸ありしと云う。徳川氏に至りても大阪城代、両町奉行交代の時には必ず當宮に参拝するを例とせり。
されば往時は巍々たる大社なりしも足利氏の世に至りて兵火に罹り以後暫次衰運に傾ける折柄、天保5年(1834)七月十一日、回禄の災に罹りて社殿、神庫等悉く烏有に帰し爾後復興の機なく、かかる名社をして遂に其の独立社たるを失はしむるに至りしは憾むべし。
明治40年氏神、露天神社に合祀せらる。社は西に向かいしを以て、夕日の神明とも称せらる。
昭和三十四年十月吉日 露天神社宮司誌す 神明會有志一同
名称 | 神明社旧跡 |
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読み方 | しんめいしゃきゅうせき |
参拝料 | なし |
御朱印 | なし |
詳細情報
ご祭神 | 「神明社舊跡」(しんめいしゃきゅうせき)と石柱に刻字 |
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ご由緒 | 社傳を按ずるに嵯峨天皇の皇子源融公弘仁十三年當時の西天満伊勢町の邊りにありし孤島に勧請し給ひしもの當社の初めなり。
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