たんざんじんじゃ
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楽しみ方談山神社のお参りの記録(2回目)
投稿日:2025年09月26日(金) 16時37分58秒
参拝:2025年9月吉日
境内を反時計回りにお詣りして回りました。
面白かったのは縁結びと縁切りの両方のお社やお堂が
あったことです。
御祭神は
藤原鎌足(フジワラノカマタリ)
をお祀りされています。
談山神社様は678年に藤原鎌足の長子である
定恵によって鎌足をお祀りするために十三重塔を
建立したのが始まりとされています…
ここから再び妄想モードです(*´艸`)
私は鎌足の長子は不比等だと思っていたので定恵なる
人物を知りませんでした。
で 定恵を調べてみると面白かったです。
定恵は出家前の名を中臣真人(マヒト)と言います。
母は孝徳天皇(当時は軽皇子)の妃であった
車持君与志古娘と言われています。
孝徳天皇は当時は重用していた鎌足に懐妊していた
与志古娘を下賜します。
そして与志古娘は真人を出産します。
孝徳天皇は難波宮から飛鳥へ移ることを求めた
中大兄皇子と対立します。
中大兄皇子は多数の朝臣を引き連れ飛鳥へと移り
孝徳天皇は失意の内に崩御されます。
その後 鎌足は中大兄皇子から額田王の姉である
鏡女王を下賜されます。
鏡女王も懐妊中だったとか(^-^;
産まれた子が不比等です。
中大兄皇子は自らが即位した後の大王の座を
揺るぎないものにするために孝徳天皇の皇子である
有間皇子(真人の兄)を奸計を用いて討ち取り
蘇我氏との関係の深かった古人大兄皇子も
討殺しています。
鎌足は「これは真人もヤベェ~」と考え11歳の真人を
遣唐使として派遣します。
しかし、帰国した真人は23歳の若さで没します。
真人の才を妬んだ百済人の仕業とされていますが
ここまで調べると中大兄皇子の影を感じます。
さて、ここで問題が発生します。
真人は西暦666年に23歳で没しています。
これは史実です。
定恵は死後に生きている父の為に(鎌足は669年没)
十三重塔を建立したということになります。
重ねて書きますが ここからはあくまで妄想です。
十三重塔を建て談山神社様の基礎を築いたのは
不比等ではないかと思います。
父である天智天皇(中大兄皇子)がしたことに対して
兄の名で十三重を建立することが兄への供養と
不比等が考えたとすると腑に落ちます。
もしかしたら鎌足からも話があったかもしれません。
そこは歴史のロマンということで。
別の話ですが談山神社様は「妙楽寺」であった頃は
延暦寺の末寺で同じ藤原氏の流れを汲む春日大社様や
興福寺様とは折り合いが悪く何度も焼き討ちにされています。
この辺りの話も興味を惹かれますが長くなるので
今日はこの辺りで。
面白かったのは縁結びと縁切りの両方のお社やお堂が
あったことです。
御祭神は
藤原鎌足(フジワラノカマタリ)
をお祀りされています。
談山神社様は678年に藤原鎌足の長子である
定恵によって鎌足をお祀りするために十三重塔を
建立したのが始まりとされています…
ここから再び妄想モードです(*´艸`)
私は鎌足の長子は不比等だと思っていたので定恵なる
人物を知りませんでした。
で 定恵を調べてみると面白かったです。
定恵は出家前の名を中臣真人(マヒト)と言います。
母は孝徳天皇(当時は軽皇子)の妃であった
車持君与志古娘と言われています。
孝徳天皇は当時は重用していた鎌足に懐妊していた
与志古娘を下賜します。
そして与志古娘は真人を出産します。
孝徳天皇は難波宮から飛鳥へ移ることを求めた
中大兄皇子と対立します。
中大兄皇子は多数の朝臣を引き連れ飛鳥へと移り
孝徳天皇は失意の内に崩御されます。
その後 鎌足は中大兄皇子から額田王の姉である
鏡女王を下賜されます。
鏡女王も懐妊中だったとか(^-^;
産まれた子が不比等です。
中大兄皇子は自らが即位した後の大王の座を
揺るぎないものにするために孝徳天皇の皇子である
有間皇子(真人の兄)を奸計を用いて討ち取り
蘇我氏との関係の深かった古人大兄皇子も
討殺しています。
鎌足は「これは真人もヤベェ~」と考え11歳の真人を
遣唐使として派遣します。
しかし、帰国した真人は23歳の若さで没します。
真人の才を妬んだ百済人の仕業とされていますが
ここまで調べると中大兄皇子の影を感じます。
さて、ここで問題が発生します。
真人は西暦666年に23歳で没しています。
これは史実です。
定恵は死後に生きている父の為に(鎌足は669年没)
十三重塔を建立したということになります。
重ねて書きますが ここからはあくまで妄想です。
十三重塔を建て談山神社様の基礎を築いたのは
不比等ではないかと思います。
父である天智天皇(中大兄皇子)がしたことに対して
兄の名で十三重を建立することが兄への供養と
不比等が考えたとすると腑に落ちます。
もしかしたら鎌足からも話があったかもしれません。
そこは歴史のロマンということで。
別の話ですが談山神社様は「妙楽寺」であった頃は
延暦寺の末寺で同じ藤原氏の流れを汲む春日大社様や
興福寺様とは折り合いが悪く何度も焼き討ちにされています。
この辺りの話も興味を惹かれますが長くなるので
今日はこの辺りで。
すてき
投稿者のプロフィール

れん太郎1367投稿
元々は休日に景勝地へドライブが趣味で、神社仏閣もお参りするのが好きでした。 年齢を重ねて夫婦で何か形のあるものを残したいと考えていたところ、細君より御朱印集めを提案され令和六年三月より始めました...もっと読む
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