おおやまとじんじゃ
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石上神宮の次は、同じく畿内二十二社の一つ大和神社に参拝に行って来ました。ご存知のとおり戦艦大和ゆかりの神社です。戦艦大和には大和神社から分祀されていました。戦艦大和の艦内です。日本海軍の艦艇の内部には必ずといっていいほど神社が祀られ艦名にちなんだ神社から分祀する事が多かったのです。第二艦隊司令官伊藤整一命以下2736柱と護衛艦の方々が祖霊社に合祀されました。
主祭神の大国魂大神は、かつて天照大神と共に宮中に祀られる格式の高い神様でした。しかし崇神天皇が、二神が同じく祀られているのは畏れ多いとして天照大神を笠縫邑、大国魂大神を穴磯邑に祀らせ、その後幾度かの遷座を経て、現在の地に鎮座されました。
八世紀の中頃には、大和のみならず尾張、武蔵、常陸、安芸、出雲の諸国に三二七の神封(神社に寄進された封戸)があてられていました。これは伊勢神宮に次ぐ多さである。また九世紀には従二位、従一位、正一位の神階を次々に授けられており、やはり伊勢神宮に次いで重視されていたことがうかがえる。






奈良県天理市にある大和神社を参拝いたしました。 大和神社と書いて、「おおやまとじんじゃ」と読みます。 主祭神は倭大国魂神(日本大国魂大神~やまとのおおくにたまのかみ)、それに八千戈神(やちほこのかみ)、御年大神(みとしのおおかみ)の三柱を祀ります。 その歴史は古く、「日本書紀」の記述によれば、崇神天皇6年(紀元前92)、この地で蔓延した疫病や謀反を企てる者の出現を憂えた天皇が、もともと宮中(磯城瑞籬宮~しきのみずかきのみや)に一緒に祀られていた倭大国魂神と天照大神(あまてらすおおみかみ)が同殿共床であることが原因との考えから、両神をそれぞれ宮中の外で祀らせるようにしたことに始まります。 天照大神は皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)により倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)へ一時移されたのち、所謂「元伊勢」と呼ばれている場所を転々として最終的に伊勢の地に遷ります。 一方、倭大国魂神は皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を勅して、倭穴磯邑(やまとあなしむら)大市の長岡岬(ながおかみさき)に祀ることにしたのですが渟名城入姫命の髪は抜け、体は痩せ細ってしまい、祭祀を続けることができなくなった為、大倭直(やまとのあたい)の祖・市磯長尾市宿禰(いちしのながおちのすくね)に命じて新たに神地を定め、祀り直されたのが大和神社の起源のようです。社伝によると、寛平9年(897年)に正一位の神階が授位され、延喜式神名帳に「大和坐大国魂神社 三座」と記載される式内で、その三座はいずれも名神大社に格付けされました。 また、白河天皇の時代(平安時代中期)には、当初から二十二社の中七社に、明治4年(1871年)には官幣大社に列せられています。 かつては天照大神を祀る伊勢神宮に匹敵する広大な社領を有していましたが、平安遷都や藤原氏隆盛などにより徐々にその勢力は衰えていき、さらには度重なる火災で神領の書類をすべて焼失、中世ごろには社領を全て失ってしまいました。 私はあまり社格云々でその神社を語るのは好まないのですが、同じ奈良にある石上神宮や大神神社と並ぶ序列であり日本最古級の神社であったにもかかわらず現在では一見するとただの村の鎮守社かと思える佇まい、と感じました。(それはそれで雰囲気は嫌いじゃないのですが…。) 境内には「戦艦大和ゆかりの神社」なる記念碑があり、戦艦大和の最期をともにした殉死者2,736柱の御霊が末社・祖霊社に合祀されています。 戦時中、日本海軍の軍艦の艦内には必ずと言っていいほど神社が祀られ、多くの場合は艦名に因んだ神社から分祀することが多かったそうで、戦艦大和の艦長室には大和神社祭神の分霊が祀られていました。 沖縄への上陸を開始したアメリカ軍を撃退すべく出撃した世界最大級、最強と謳われた戦艦大和でしたが、海上特攻(沖縄の浅瀬に自力座礁し、浮き砲台として陸上戦を支援する)という無茶な作戦は、容易に敵側に察知されていて、目的地にたどり着く前にアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、その戦闘力を発揮することもなく、昭和20年(1945年)、鹿児島県坊ノ岬沖にてあえなく撃沈されてしまいます。
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