ぜんこうじ
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善光寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年09月11日(水)
参拝:2024年9月吉日
【定額山(じょうがくさん)善光寺(ぜんこうじ)】
本尊: 一光阿弥陀三尊像(いっこうあみださんぞんぞう)
宗派:無宗派
開基:皇極天皇(こうぎょくてんのう)
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第50番~
~昔、インドに月蓋(がっかい)という大金持ちがいた。とても不信心な男だったが、高齢になってから授かった娘だけはかわいがっていた。あるとき、国中に伝染病がはやり、その娘も病に襲われてしまう。大金を積んで国中の名医に診てもらったが治らない。最後に月蓋は釈迦(しゃか)を訪ねて娘の命乞いをした。それを聞いた釈迦は、西方浄土(さいほうじょうど)を信じなさいと説いた。
月蓋はその教えにしたがって、西に向かって、「南無阿弥陀仏」を十回唱えた。すると、たちまち観音菩薩、勢至菩薩の両菩薩をしたがえた阿弥陀如来があらわれ、眉間から光を放った。娘はその光に照らされて全快したという。
大喜びの月蓋は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を仏像としたいと考えた。そして、竜宮城の金塊を使ってできたのが、善光寺の本尊である一光阿弥陀三尊像だという。ひとつの光背に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が並ぶ姿から「一光阿弥陀三尊」あるいは「一光三尊」と呼ばれている。
この本尊はインドからまず朝鮮半島にわたって人びとを救済し、その後、日本の天皇に送られた。
当時の日本は、仏教を支持する崇仏派の蘇我(そが)氏と仏教を排撃する排仏派の物部(もののべ)氏とが争っていた。そこで天皇は、本尊を蘇我氏にあたえて様子をみることにした。
すると、しばらくして日本中に悪病がはやりだした。これを見て物部氏は、異国の神を祀ったのが原因だといって、蘇我氏の建てた寺を焼きはらってしまう。さらに、その本尊を難波の堀江に投げこんでしまった。
その後、国司のお供をして都にのぼった信濃国の住人、本田善光がその堀江にさしかかると、水の中から急に三尊像があらわれでて、善光の肩に飛びのった。そして信州へ連れていくよう促した。
善光が自分の家に一光三尊像を安置していると、誰言うともなく、善光の家は「善光さんのお寺(善光寺)」と呼ばれるようになったとされる。
ところが、ある日、善光の息子善佐(よしすけ)が死んでしまう。善光・弥生の夫婦が悲観にくれていると、阿弥陀如来が地獄から善佐を甦(よみがえ)らせた。この世に戻る途中、善佐は鬼に引きずられて地獄に向かっている高貴な女性に出会う。その女性は、皇極天皇であった。
生き返った善佐からその話を聞いた善光が、阿弥陀如来に皇極天皇の命乞いをすると、そのおかげで天皇は生き返ったという。
蘇生した天皇は、皇極元(642)年、善光と善佐親子の手柄をおおいにほめたたえ、善光の家の場所にりっぱな如来堂を建てるよう勅命を発せられたのである。これが、善光寺の堂宇のはじまりだとされている。~
~『百寺巡礼 第五巻 関東・信州』五木寛之(講談社、2004)~
「遠くとも一度は詣れ善光寺 救ひ給うは弥陀の誓願」。修学旅行で来て以来の善光寺です。善光寺に到着したのは午後4時を過ぎていました。北側の駐車場から入りました。参拝時間が、4時半まででしたので時間がありません。先に御朱印を頂いて、山門(三門)に上がってタイムオーバーでした。見どころが多く時間を要し、仲見世を歩くころには多くの店は閉まっていました。楽しみにしていたおやきが食べれなくて残念。薄暗くなるとライトアップされた仁王さまが浮き出るように見え印象的でした。
本尊: 一光阿弥陀三尊像(いっこうあみださんぞんぞう)
宗派:無宗派
開基:皇極天皇(こうぎょくてんのう)
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第50番~
~昔、インドに月蓋(がっかい)という大金持ちがいた。とても不信心な男だったが、高齢になってから授かった娘だけはかわいがっていた。あるとき、国中に伝染病がはやり、その娘も病に襲われてしまう。大金を積んで国中の名医に診てもらったが治らない。最後に月蓋は釈迦(しゃか)を訪ねて娘の命乞いをした。それを聞いた釈迦は、西方浄土(さいほうじょうど)を信じなさいと説いた。
月蓋はその教えにしたがって、西に向かって、「南無阿弥陀仏」を十回唱えた。すると、たちまち観音菩薩、勢至菩薩の両菩薩をしたがえた阿弥陀如来があらわれ、眉間から光を放った。娘はその光に照らされて全快したという。
大喜びの月蓋は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を仏像としたいと考えた。そして、竜宮城の金塊を使ってできたのが、善光寺の本尊である一光阿弥陀三尊像だという。ひとつの光背に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が並ぶ姿から「一光阿弥陀三尊」あるいは「一光三尊」と呼ばれている。
この本尊はインドからまず朝鮮半島にわたって人びとを救済し、その後、日本の天皇に送られた。
当時の日本は、仏教を支持する崇仏派の蘇我(そが)氏と仏教を排撃する排仏派の物部(もののべ)氏とが争っていた。そこで天皇は、本尊を蘇我氏にあたえて様子をみることにした。
すると、しばらくして日本中に悪病がはやりだした。これを見て物部氏は、異国の神を祀ったのが原因だといって、蘇我氏の建てた寺を焼きはらってしまう。さらに、その本尊を難波の堀江に投げこんでしまった。
その後、国司のお供をして都にのぼった信濃国の住人、本田善光がその堀江にさしかかると、水の中から急に三尊像があらわれでて、善光の肩に飛びのった。そして信州へ連れていくよう促した。
善光が自分の家に一光三尊像を安置していると、誰言うともなく、善光の家は「善光さんのお寺(善光寺)」と呼ばれるようになったとされる。
ところが、ある日、善光の息子善佐(よしすけ)が死んでしまう。善光・弥生の夫婦が悲観にくれていると、阿弥陀如来が地獄から善佐を甦(よみがえ)らせた。この世に戻る途中、善佐は鬼に引きずられて地獄に向かっている高貴な女性に出会う。その女性は、皇極天皇であった。
生き返った善佐からその話を聞いた善光が、阿弥陀如来に皇極天皇の命乞いをすると、そのおかげで天皇は生き返ったという。
蘇生した天皇は、皇極元(642)年、善光と善佐親子の手柄をおおいにほめたたえ、善光の家の場所にりっぱな如来堂を建てるよう勅命を発せられたのである。これが、善光寺の堂宇のはじまりだとされている。~
~『百寺巡礼 第五巻 関東・信州』五木寛之(講談社、2004)~
「遠くとも一度は詣れ善光寺 救ひ給うは弥陀の誓願」。修学旅行で来て以来の善光寺です。善光寺に到着したのは午後4時を過ぎていました。北側の駐車場から入りました。参拝時間が、4時半まででしたので時間がありません。先に御朱印を頂いて、山門(三門)に上がってタイムオーバーでした。見どころが多く時間を要し、仲見世を歩くころには多くの店は閉まっていました。楽しみにしていたおやきが食べれなくて残念。薄暗くなるとライトアップされた仁王さまが浮き出るように見え印象的でした。
【仁王門】
【むじな地蔵】
白蓮坊(びゃくれんぼう)前にあるお地蔵さん。
白蓮坊(びゃくれんぼう)前にあるお地蔵さん。
【大本願(だいほんがん)】
善光寺は、無宗派で天台宗と浄土宗のそれぞれの住職が二人体制で住職を担っています。仁王門の脇にあるのが浄土宗の「大本願」。山門(三門)の脇にあるのが天台宗の「大勧進」。僧侶の住まいを、浄土宗では坊、天台宗では院と呼ぶそうですが寺内には多くの坊院が並んでいます。
善光寺は、無宗派で天台宗と浄土宗のそれぞれの住職が二人体制で住職を担っています。仁王門の脇にあるのが浄土宗の「大本願」。山門(三門)の脇にあるのが天台宗の「大勧進」。僧侶の住まいを、浄土宗では坊、天台宗では院と呼ぶそうですが寺内には多くの坊院が並んでいます。
【仁王門】
【仁王門 扁額】
【仁王 吽形像】
向かって右が口を開いた阿形像、左が口をへの字に結んだ吽形像であるのが普通ですが、奈良の東大寺南大門と同じ阿吽が左右逆になっています。
向かって右が口を開いた阿形像、左が口をへの字に結んだ吽形像であるのが普通ですが、奈良の東大寺南大門と同じ阿吽が左右逆になっています。
【仁王 阿形像】
【三面大黒天像】
仁王 阿形像の裏に安置されています。
仁王 阿形像の裏に安置されています。
【三宝荒神像】
仁王 吽形像の裏に安置されています。
仁王 吽形像の裏に安置されています。
【山門(三門)の上から見る仲見世】
【仲見世お店の番犬】
アイスリングを首に巻いてご機嫌です。
アイスリングを首に巻いてご機嫌です。
【世尊院釋迦堂】
【世尊院釋迦堂】
【釋迦堂 扁額】
【駒返り橋~山門(三門)】
【六地蔵】
【濡れ仏(延命地蔵菩薩座像)】
【手水舎】
【大勧進(だいかんじん)】
【大勧進】
【山門(三門)】
重要文化財。
重要文化財。
【山門(三門) 扁額】
鳩文字の額。5羽の鳩がいるらしい。
鳩文字の額。5羽の鳩がいるらしい。
【本堂】
国宝。
国宝。
【大香炉】
【本堂】
【本堂】
【本堂】
【本堂】
【親鸞聖人像】
【親鸞聖人像】
【仏足跡】
【むじな燈籠】
昔、下総国のむじなが、殺生をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて善光寺に参詣しました。善光寺に燈籠を寄進しましたが、白蓮坊の宿坊で風呂に入っていたところ、正体を見られてしまい、逃げ出したといいます。これがそのむじな燈籠。
昔、下総国のむじなが、殺生をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて善光寺に参詣しました。善光寺に燈籠を寄進しましたが、白蓮坊の宿坊で風呂に入っていたところ、正体を見られてしまい、逃げ出したといいます。これがそのむじな燈籠。
【経蔵】
重要文化財。
重要文化財。
【大回向柱(だいえこうばしら)】
~善光寺の本尊は絶対秘仏とされ、人びとの前にあらわれることはない。しかし、秘仏の厨子の前に祀られる、いわゆるお前立ちの一光三尊像は、7年に1回の開帳で姿をあらわすそうだ。このとき、お前立ちの一光三尊像と本堂の外に設けた柱を一本の綱でつなぐ。こうしてから外の柱にふれれば、綱でつながったお前立ちの本尊にふれたことになるという。この柱を大回向柱という。境内のすみに立っている柱の群れは、使い終わった歴代の大回向柱だったのである。~
~善光寺の本尊は絶対秘仏とされ、人びとの前にあらわれることはない。しかし、秘仏の厨子の前に祀られる、いわゆるお前立ちの一光三尊像は、7年に1回の開帳で姿をあらわすそうだ。このとき、お前立ちの一光三尊像と本堂の外に設けた柱を一本の綱でつなぐ。こうしてから外の柱にふれれば、綱でつながったお前立ちの本尊にふれたことになるという。この柱を大回向柱という。境内のすみに立っている柱の群れは、使い終わった歴代の大回向柱だったのである。~
【爪彫如来像】
親鸞聖人が善光寺に滞在した際に手彫りした阿弥陀如来と伝わります。
親鸞聖人が善光寺に滞在した際に手彫りした阿弥陀如来と伝わります。
【爪彫如来像】
【鐘楼】
【梵鐘】
【本堂から見る山門(三門)】
【日本忠霊殿】
【雲上殿】
【御朱印】
すてき
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