たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ
健御名方富命彦神別神社のお参りの記録一覧
善光寺北側の長野県立美術館に細見美術館の名品展で伊藤若冲の作品を見に行った際に駐車した城山第三駐車場横に鎮座していたこちらの神社⛩️にお参りしてきました。
文献では、持統天皇5年(691年)に天皇の命で信濃国に「水内神」を祀らせたとする記述があり、これが文献上初見とされる。『延喜式』神名帳に「水内神」の記載はないが、健御名方富命彦神別神社が水内郡唯一の大社であることから、この「水内神」は健御名方富命彦神別神社を指すと考えられている。
祭神
社名の通り「健御名方富命彦神別神」を祀る社とされる。この神の解釈は各社で異なる。
建御名方命同神説
諏訪大社祭神の「建御名方命」と同一視する説。
建御名方命の御子神説
「健御名方富命」に「彦神別」を重ねた感があることから、建御名方命の御子神とみる説。諏訪大社では、下社摂社の若宮社に「建御名方彦神別命」として祀られる。
「健御名方富命」と「彦神別神」の2神説
「健御名方富命彦神別神」とは2神を表すとし、「健御名方富命」は建御名方命、「彦神別神」はその御子神と見る説(例:妻科神社)。
昼食は、長野市でハンバーグの名店とされるドンキホーテ篠ノ井バイパス店さんで頂きました。
県立美術館の展示品では、伊藤若冲の「鼠婚礼図」が一番気に入りました。実物は撮影できませんが、売店で額装と掛け軸で売っていたので写真を撮りました。
若冲というと、鶏の絵が有名ですが、大黒天の使いである鼠の婚礼でとても縁起が良い絵で人気があるそうです。
一之鳥居⛩️
神額
参道
筋肉質の狛犬
筋肉質の狛犬
御柱?
筋肉質の狛犬
筋肉質の狛犬
灯籠に徳川の葵の御紋
灯籠に徳川の葵の御紋
参道
二之鳥居⛩️
拝殿
神額
神額
葵の御紋
拝殿内
地主大神
明治天皇駐蹕之処碑
本殿
本殿
本殿
境内社 木匠祖神社
木匠祖神社
境内社 千幡社
千幡社
脇障子の彫刻
脇障子の彫刻
縣社 健御名方富命彦神別神社
ドンキホーテのハンバーグ
ドンキホーテのハンバーグ
特大320グラム
ドイツ🇩🇪のノンアルコールビール
伊藤若冲の鶏のポスター
細見美術館の名品 県立美術館にて
一番気に入り伊藤若冲「鼠婚礼図」
実物は撮影できませんが、売店で売っていたのを撮影 額装
一番気に入り伊藤若冲「鼠婚礼図」
実物は撮影できませんが、売店で売っていたのを撮影 掛け軸
武井神社の兼務社。現在は善光寺東方の丘上、城山公園の一角の横山城跡(第2次川中島の戦の際には上杉軍の本陣は置かれていました)に鎮座していますが、明治11年(1878)までは善光寺境内にあり「年神堂八幡宮」と称していました。式内社の論社とされている古社です。御祭神は健御名方富命(建御名方神)で、元の本殿は守田酒神社に移築されています。
鳥居
参道
歌碑
狛犬
大正四年(1914)と刻まれた石柱
常山山寺先生亭
蔦吟亭文山句碑「薄雲の行衛や 花の藤處」
碑文板
千曲川改修起工碑
中村碓嶺句碑「数の灯 夜はみほとけの 五月晴」
灯籠
石段
拝殿
右、脇拝殿 地主大神との扁額あり
左、脇拝殿
本殿
明治十七年(1884)奉納の灯籠
明治天皇駐蹕之処碑 陸軍大将・乃木希典の揮毫、明治11年に行われた北陸巡幸の際、9月に長野にお泊りになっています。この丘の亭館において川中島四郡を眺め、「佳郷」とのお言葉を発せられたと、現地案内版にありました。後にこの亭館は「佳郷館」と名付けられましたが、明治24年の城山火災のため類焼。巡幸の際にはまだこの地に健御名方富命彦神別神社は遷座していません。その後すぐに遷座したことと何か関係があるのかも
説明書きは全く読めません
健御名方富命彦神別神社と刻まれている縣社碑
境内社鳥居
境内社 木匠祖神社 明治14年、長野市内の工匠諸職の道祖神として祭祀されたお社。昭和49年遷座御祭神は手置帆命・彦狭智命・聖徳太子
社殿の後方に御祭神銘の石碑
由緒書 玉垣があってよく見えません
境内社 千幡社
灯籠
玉垣建設記念碑
城山縣社越年講記念碑
坐崎浪治君碑
小出重太郎君碑
地元の方かな?
【信濃國 式内社巡り】
健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみこと・ひこかみわけ~)(城山県社水内大社)は、長野県長野市大字長野字本城東にある神社。式内論社(名神大)で、旧社格は県社。祭神は健御名方富命。諏訪大社と同じ建御名方神を祀り、同じ祭神を祀る周辺の4社(当社、武井神社、妻科神社、湯福神社)の持ち回りで寅年、申年に御柱祭を行っている。別称は「城山県社」、「水内大社」、「彦神別神社」。
創建は不詳。当社と妻科神社(祭神は健御名方富命の后神)を合わせて、両社で『日本書紀』持統天皇5年(691年)条にある「水内神」とする説もある。平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「信濃國 水内郡 健御名方富命彦神別神社 名神大」の論社となっており、他の論社としては、社名が同名で長野市信州新町と飯山市豊田がある。明治時代の1878年までは善光寺境内の本堂の北側にあり「年神堂(歳神堂)八幡宮」と称していたが、1879年明治天皇御臨幸を契機に現在地に遷座し、現社名に改称した。
当社は、長野線・善光寺下駅の北西400mの小高い丘の上にある。善光寺本堂の東方400mの場所にあって、善光寺との間には長野県立美術館を含む城山公園がある。当社境内からは、善光寺や美術館を見下ろすことができる。当社境内は城郭のように周りよりも高くなっているが、その境内の中でも鳥居のある南側よりも社殿周りの北側は一段高くなっている。立地の良さや広さは、旧県社の風格があるが、不思議なことにあまり手入れをされていないのか、割と草ぼーぼーでややワイルドな状態。通常は無人社なので、雑草の伸びるのが早いこの時期だと定期的に手入れしてもこうなってしまうのかも。社殿の大きさや大型石碑の多さからすると、旧県社らしいとは言える。
今回は、信濃國の式内論社、長野県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、自分たち以外には参拝者はいなかった。
※当社は武井神社(長野市長野東町)が兼務しているため、御朱印は武井神社で拝受できる。
境内南端入口の<鳥居>と<社号標>。城壁のような石垣の上に大きな両部鳥居。
階段を登ると、参道の先の林の中に、社殿への階段が見える。
(ちょっと草ボーボーなのが気になる...(^_^;))
参道の右手にある、大きな<社務所>。そこそこ新しそうだが無人。
参道両側に大きな狛犬が鎮座し、その奥の階段上に社殿が見えてくる。
参道左側の<狛犬>。大社でよく見かける、腕の長いマッチョ系の凛々しいタイプ。
参道右側の<狛犬>。あれ?こちらは作者が違うようで、ゴリマッチョ系。
参道進んで階段を登る。
拝殿は両側に翼殿があって威風堂々大きい。階段途中でないと全景が写せない。
<拝殿>全景。重厚感がある。(雨どいの草は御愛嬌...(^_^;))
<拝殿>正面。上の扁額には、光仁天皇勅語「祭祀神祇國之大典」とある。
扁額の後方にもう一つ扁額が掛かっていて、社名が記載されている。美しい字体。(o^―^o)
<拝殿>内部。何と書いてあるか分からないが、彫刻等かなり豪華な扁額が掛かっている。
拝殿前の階段上から、下の境内を見下ろす。
拝殿右側の翼殿。「地主大神」と書いた扁額が掛かっている。
拝殿左側の翼殿。こちらには扁額は掛かっていない。
拝殿に向かって左手(西側)に境内社があるようなので見て廻る。
境内西端に立つ<千幡社>。
千幡社の社殿を見に行くと、その後ろは見晴しが良い。
手前は長野県立美術館で、奥は国宝の善光寺の本堂。当社はもともと善光寺本堂の北側にあったので、この距離を遷座して来たことになる。
社殿の左側、境内北西端にある<木匠祖神社>。明治時代に長野市内の工匠諸職の道祖神として祀られたとのこと。
<木匠祖神社>の社殿。
木匠祖神社の位置から見た、本社の<本殿>。大きな拝殿と比べるとかなり小さい。
千幡社前から<拝殿>全景。
階段を下りて、下の境内を見て廻る。まず境内西側にある大きな石碑。何が書いてあるか分からない...(^_^;)
境内東側にある大きな石碑。1992年の「千曲川改修起工碑」とある。
最後に木々の間から<社殿>を望む。
うーん、昔は大社として大事にされた感じがするが、今はちょっともったいないかも...(^_^;)
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