当社の創始は定かではありません。
主祭神・日本武尊(倭建命、ヤマトタケルノミコト)は、『古事記』『日本書紀』にも記されている、大和の国(古代の日本国)を統一に導いた伝説の英雄です。(諸説ありますが、4〜5世紀、およそ今から1600年くらい前のことと云われております)
第12代景行天皇の第2皇子として生まれた小碓命(おうすのみこと)は、若い頃から武勇にすぐれておりました。西国は九州の熊襲タケル・出雲タケルなどの豪族を従えてまわり、その後休む間も無く、帝の命令により東の蝦夷などの統一に向かわれました。
東国を統一したその帰り道、尾張国のお妃・美夜受比賣命(宮津姫命)に神剣・天叢雲剣(草薙剣)を預け、伊吹山へ向かいました。(後にこの神剣が熱田神宮に祀られることとなります。三種の神器のひとつです。)しかし、尊は伊吹山の戦いで傷つき、病におかされてしまいます。
尊は動かない体を引きずって、この能褒野の地にたどり着き、ここから遙かに父君のいる大和を望んでその短い生涯を終えられたと伝えられています。(※能褒野の場所については諸説ありますが、古代では、鈴鹿山脈の裾野あたりの一帯が「のぼり野」や「のぼの原」と云われていたようです。東海道より鈴鹿山脈まではなだらかな高台で、古代の古墳が数多くあります。その中の一つが、白鳥塚古墳です。)
そのときわずか30歳余りであったとされています。(※多度〜桑名〜四日市〜鈴鹿へと進まれた、尊の足跡にはいろいろな地名が残っております。この地の「三重」という名も尊の説話からきているのです。)
倭は 国のまほろば (大和は国の中でいちばん優秀なところだ)
たたなづく 青垣 (山々が重なりあって青い垣根のようだ)
山隠れる 倭し美し (山々に囲まれている大和の国はほんとうに美しい)
この歌は、尊が亡くなられる前鈴鹿の山々を眺めながら故郷を偲んだ歌、いわゆる「国偲びの歌」とよばれるものです。
尊の亡くなられたところが、本殿北西にある「白鳥塚」(白鳥御陵)です。
この白鳥塚のそばに、尊が亡くなる時に持っていた形見の「笠」と「杖」をお祀りしたのが、加佐登神社の始まりと伝えられています。
明治時代までは「御笠殿社」と呼ばれ、尊が亡くなられるまで病気に悩まされていたことから、病気平癒によく効くと、いにしえから今に至るまで人々の篤い信仰があります。
尊が亡くなられた後、父君景行天皇が東国を回られた際、半年ほどこの地に滞在されたことから、ここは「高宮の里」と呼ばれるようになりました。(この高宮という地名は、明治まで使われていました。)
そして、明治41年に高宮内の17神社を合祀し、今の「加佐登神社」となりました。合祀した神社の中には、延喜式内社「倭文(しどり)神社」も含まれています。
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