御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
ホトカミを続けていくために、
あなたのサポートが必要です〈特典あり〉
四天王寺聖徳太子1400年限定御朱印大バナー2024年11月四天王寺聖徳太子1400年限定御朱印大バナー2024年11月
高山寺ではいただけません
広告

こうざんじ|単立(真言宗)栂尾山

高山寺
京都府 嵯峨嵐山駅

高山寺について

世界遺産、国宝・鳥獣人物戯画があったお寺


紅葉の名所でもあります。

おすすめの投稿

投稿をもっと見る(50件)

歴史

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。
明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。
明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。

歴史をもっと見る|
7

高山寺の基本情報

住所京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
行き方

■JR京都駅からJRバス高雄・京北線「栂ノ尾」「周山」行で約55分
 (途中、四条大宮・二条駅前・円町などを経由)、栂ノ尾下車。
■京都市営地下鉄烏丸線四条駅から、市バス8系統で約50分、
 高雄下車、徒歩約15分。
■栂ノ尾バス停近くに市営駐車場があります。100台(無料)※11月のみ有料
※嵐山高雄パークウェイは有料、営業時間8時〜20時(季節によって変更あり)

アクセスを詳しく見る
名称高山寺
読み方こうざんじ
参拝時間

8:30〜17:00

参拝料

石水院800円(※紅葉時期のみ入山料500円)

御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号075-861-4204
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://kosanji.com/
SNS

巡礼の詳細情報

数珠巡礼

第26番

詳細情報

ご本尊釈迦如来像
山号栂尾山
宗旨・宗派単立(真言宗)
創建時代宝亀五年(774)
文化財

石水院、鳥獣人物戯画(国宝)
明恵上人坐像、宝篋印塔、如法経塔(重要文化財)
庭園(市指定名勝)

ご由緒

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。
明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。
明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。

体験世界遺産国宝重要文化財有名人のお墓
「みんなでつくる御朱印・神社お寺の検索サイト」という性質上、掲載されている情報の正確性は保証されませんので、必ず事前にご確認の上ご利用ください。
神社寺院のホームページが無料でかんたんに作れる!

この寺院の僧侶様へ

公式アカウント(無料)にご登録いただくと、

ご自身の寺院の情報を編集することができます。

無料登録して、参拝者が必要な情報を直接伝えてみませんか?

詳しくはこちら

ホトカミのデータについて

ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。

ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy andTerms of Service apply.

御朱印背景
行きたい
投稿する
お問い合わせ
ホトカミを続けるために、あなたのサポートが必要です。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから

お問い合わせ