はらたにべんざいてん
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方切り絵・一粒万倍日の御朱印や神さま・仏さま・宗派検索可能に

京都府のおすすめ2選🎏
おすすめの投稿

京都市北区にある神社です。
こちらも原谷の地域にあります。
この日は仁和寺から北上したのですが 車がすれ違えないような道を進むので少々おっかなかったです。(帰りは金閣寺方面に抜けました)
道を歩いていると 遅咲きの桜が満開でした。
こちらの原谷弁財天さんの参拝者は数名いらっしゃいました。
この規模の神社で この地域。数名の参拝者がいらしゃることに少し驚きました。
観光神社でもないと思いますが 実は有名なのでしょうか。
道からはゆるやかな坂を少し上ります。
坂道を上がっていると 蜂の羽音がします。ん?なに?
境内に入って嬉しいできごとが。
社務所の横に藤棚があり これがまあ見事に満開でした。藤の花に熊蜂が寄ってきているのでした。
藤の花 今まで気づかなかったのですが いい匂いがします。
お参りをすませてから しばらく藤棚の下でのんびりしていました。
そろそろ藤の花で有名な寺社参りをしたくなりました。
ネット情報です。
祭神は弁財天 摂社では白龍大神を祀る。
文治2年 壇の浦の戦いに破れた平家一門が 洛北の山中に落住するのを原谷の祖形とする。
原谷に住居を定めた一族は 都が一望にできる長谷山頂上見張り番を立て 原谷を乾・巽・艮・坤の地区に分散し 坤の方向に弁財天 乾の頂上に八幡宮を祀った。
弁財天・福徳八幡宮は 戦いの神として信仰され 不要になった武器を「八幡宮」裏山に納めたという。
やがて住民は山を下り 明治の初期まで30人ほど住んでいたが 相ついで都周辺に下りた。
神社の守りをすることができず 八幡宮はわら天神へ 弁財天は仁和寺へと遷座した。
第二次大戦後 糧増産緊急開拓の事業が始まり 原谷地区にも18世帯が入植し 村造りが始まった。
先住者の守護神としていた弁財天を原谷に里帰りさせたいという住民たちの要望により 昭和26年 内田弥太郎氏宅まで出迎えた。
昭和53年 殿が落成し 原谷地域の氏神様として祀られるようになった。
山桜かな
一の鳥居
藤棚
見事に満開
手水
社務所は新しい
由緒書
本殿
由緒書
内陣
摂社:白龍大神
蜂の気分で
いい匂い

もしかしたら、私のご先祖様達が住んで居た場所ではないかと思います、何故なら弁財天さんの名前が私の名字ですし、紹介でも書いてます、平氏の落人と父より聞いています、また従姉妹はお参りに行きましたね🙏私は身体が悪く行けてません😢いつかいきたいと思っていますが、今回素晴らしいご縁が有りまして、出来たばかりの御朱印を郵送してくださいました、日付は発送していただいた日です、御尽力をつくしてくださいました方に感謝です🙏以下原谷弁財天さんのホームページから抜粋しました、良かったら読んでください🙇(ホームページより引用しています)文治2年、壇の浦の戦いに破れた平家一門が、洛北の山中に落住するのを原谷の祖形とする。原谷に住居を定めた一族は、都が一望にできる長谷山頂上見張り番を立て、原谷を乾・巽・艮・坤の地区に分散し、坤の方向に弁財天、乾の頂上に八幡宮を祀った。弁財天・福徳八幡宮は、戦いの神として信仰され、不要になった武器を「八幡宮」裏山に納めたという。やがて住民は山を下り、明治の初期まで30人ほど住んでいたが、相ついで都周辺に下りた。神社の守りをすることができず、八幡宮はわら天神へ、弁財天は仁和寺へと遷座した。 第二次大戦後、食糧増産緊急開拓の事業が始まり、原谷地区にも18世帯が入植し、村造りが始まった。先住者の守護神としていた弁財天を原谷に里帰りさせたいという住民たちの要望により、昭和26年、内田弥太郎氏宅まで出迎えた。昭和53年、社殿が落成し、原谷地域の氏神様として祀られるようになった。
御朱印です、ホトカミさんには初見参ですかね?まさに名字が書いてます😌元旦とお祭り日だけ、いただけるそうです。
(写真お借りして)朱色の鳥居です
(お借りしてます)本殿です🙏
(お借りしてます)奥に白龍大神の末社
近くの神社お寺
周辺エリア
京都府のおすすめ2選🎏
原谷弁財天に関連する記事
おすすめのホトカミ記事
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
16
3