ずいせんじ|浄土宗西山禅林寺派|慈舟山
瑞泉寺のお参りの記録一覧
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令和5年7月24日(月)
京都市中京区の瑞泉寺に参拝
令和5年7月23日(日)~25日(火)に京都・大阪旅行
三条大橋のたもとにあるのが瑞泉寺。せっかくなのでお参りしてみる。
ここは豊臣秀次の菩提を弔うために角倉了以が建てたお寺。秀次は、理由はよくわからないけれど切腹し、その妻女30名以上がこの三条大橋の河原で惨殺されたわけで、秀次はじめ惨殺された人たちのお墓がある。妻女の中でも有名なのは山形の大名最上義光(よしあき)の娘の駒姫で、まだ正式な側室になっていなかったのに一緒くたにされて惨殺されたとされる。
前にはこのお寺には御朱印はなかったはずなのだけれど、今回は本堂の前に秀次の姿を描いた書き置きの御朱印が置いてあって、300円を賽銭箱に入れるようにとのこと。せっかくなのでいただく。
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京都市中京区にあるお寺です。
山号は慈舟山
宗旨宗派は浄土宗西山禅林寺派
ご本尊は阿弥陀如来
です。
この地はもとは鴨川の中州だったようです。
豊臣秀次の正室・側室・若君・姫などを斬首させました。(理由は諸説あるが跡継ぎ問題らしい)
そして秀次とその者たちの亡骸を埋め、石櫃を置いて塚としたようです。
これが鴨川の洪水で流されてしまいました。
髙瀬川の工事の際に、その石櫃が偶然発見されたことから、江戸幕府に許可を得てお堂を営むこととなり、これが本山の起こりとなりました。
豊臣秀次一族とその家臣たちの墓として五輪塔が建立されています。
御朱印はセルフで拝受できます。
豊臣秀次菩提寺「瑞泉寺」
高瀬川に架かる三条小橋にすぐ横。駐車場ない。
山門の横に由緒板。「前関白豊臣秀次之墓」の石標がわかりやすい。
山門をくぐり、やや左側に本堂。正面がちょっとした資料館。
左に曲がり、引導地蔵尊が祀られ、その奥に秀次一族のお墓。多すぎて全体が載せれない数。
本堂右奥は檀家さん用のお墓。本堂前に御朱印が置いてある、セルフです。
豊臣秀次は、豊臣秀吉の甥で二代目関白。色々あって秀吉に疎んじられ高野山で切腹。三条河原で晒し首の上に子供・妻妾ら計39名が処刑されました。
秀次といえば『真田丸』の新納くんの秀次めっちゃ良かった。
すぐ近くの三条河原といえば晒し首スポットですね、有名なところだと石田三成とか近藤勇とかも晒し首されてる。今じゃカップルが(寒くても暑くても)(等間隔で)(意味もなく)座るスポットです。
山門。
本堂
本堂前のセルフ御朱印セット
秀次一族のお墓とか
地蔵堂。中に処刑された妻妾や子供の小像が祀られているとか
山門横にある大河ドラマに出た豊臣秀次集
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なんかエリアが変わってたのでこちらに移動。
一度投稿したものです。
普段は秀次公のお墓詣りは出来るのですがお堂の中に入れるのは特別拝観の時だけなので行ってきました。
小さなお寺です。
実はここ、秀吉によって三条河原で処刑された豊臣秀次一族の遺体を河原に穴を掘ってそこへ投げ捨て、小山にして塚にした場所に建っているお寺さんです。
戒壇の中心に四角い場所があるのですが、その下が投げ捨てられた穴だと聞きました。お寺の中にいろいろな展示物があるのですが、見れば見るほど「むごいことを・・・」と思った次第です。
一番心に突き刺さったのは、秀次には正妻と側室34人と若君、姫合わせて39人が秀次切腹の後処刑されたのですが、その姫の小袖が残っていて、小袖で作った掛け軸に最期の句が書かれてありました。なんか切なくなりました。
ここまでした晩年の秀吉は、やはりなんか人が変わった感じがありますよね。凄く怖がっているのが伝わってきます。
秀次のお墓と両サイドは一族のお墓です。
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殺生関白こと豊臣秀次の眠る瑞泉寺へ。謀反の疑いをかけられ、高野山に追放された挙句切腹させられる。さらにその首は三条河原にさらされ、妻妾、幼児などを合わせて30余人がその前で処刑された。彼らの遺体は首とともに河原に埋められ、塚と墓が建てられ「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻された。ここは悪逆塚、畜生塚などと称され荒れるに任せられたそうだ。
そのうち慶順という行者が通りかかり、かたわらに草庵を結び、菩提を弔ったという。彼の死後は鴨川の洪水で再び塚は荒れてしまう。しかし、角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われた際、偶然石塔などが発見されたことで、現在の地に手厚く弔われることになったそうだ。
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