ほんがんじ(にしほんがんじ)|浄土真宗本願寺派|龍谷山
本願寺(西本願寺)京都府 五条(京都市営)駅
5:30 - 17:00
夜の拝観に行ってきました。
綺麗にライトアップされ、昼間とはまた違う雰囲気の西本願寺を見ることが出来ました。
残念ながら、御朱印はいただく事は出来ませんでした…
お手水
京都市下京区にあるお寺です。
JR京都駅から北西へ徒歩で10分もかからない場所にあります。
興正寺の北側にあります。
山号は龍谷山 宗旨宗派は浄土真宗本願寺派 寺格は本山 ご本尊は阿弥陀如来です。
真宗大谷派の本山である東本願寺と区別するため 両派の本山は通称で呼ばれることが多いです。
京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれています。
本願寺がなぜ東と西に分かれているのか 少し前まで知りませんでした。
乱暴な説明ですが 簡単にお話ししますと。。
本願寺の前身である石山本願寺は 室町時代に武装化が進み 顕如上人の時代には各地の戦国大名と同盟を結ぶほどの勢力をもちました。
ところが天下統一を狙う織田信長にとって この本願寺の勢力はやっかいなものでした。
信長は石山本願寺の明け渡しを要求しましたが 顕如上人は断固拒否し 全国の門徒衆に対して打倒織田信長を決起しました。
信長は石山本願寺と10年以上も戦争を続けていましたが 武力によって攻め落とすことはできず 和睦の申し入れをしました。
本願寺内部では 和睦派と抗戦派で真っ二つに意見が分かれていました。
顕如上人は和睦を受け入れましたが 長男の教如上人は最後まで抵抗しました。
結局は信長に石山本願寺を明け渡すのですが 石山本願寺は焼かれてしまいました。
石山本願寺焼失後 顕如上人と長男の教如上人の親子の溝は埋まることはありませんでした。
顕如上人は本願寺の宗主を 長男ではなく 三男の准如上人にゆずります。
その後豊臣秀吉の時代になり 本願寺の再興を許されて京都の堀川に建てられたのが現在の西本願寺となります。
豊臣が徳川に滅ぼされ 徳川家康の時代になりました。
家康は本願寺の巨大な勢力を分断するために 不満のたまっていた教如上人に目を付け 西本願寺のすぐ近くの烏丸に寺地を寄進して東本願寺を建てさせました。
そして 本願寺教団は三男の西本願寺と長男の東本願寺に分裂されることになりました。
という流れです。
立派すぎる山門(御影堂門)
この大きさ ひとの10倍ぐらいあります
金色があしらわれた山門(阿弥陀堂門)
目隠塀
鐘楼の説明
鐘楼
鐘楼には彩色されています
御影堂
沓石の説明
これが沓石
御影堂内陣
御影堂と阿弥陀堂をつなぐ
御影堂の説明
本願寺のイチョウ 樹齢約400年
手水舎
手水の龍
阿弥陀堂
阿弥陀堂の説明
縁側と廊下の埋め木の説明
阿弥陀堂内陣
経蔵
経蔵の説明
西本願寺
~世界遺産・御影堂門・阿弥陀堂門・唐門~
山号 龍谷山
豅山
宗旨宗派 浄土真宗本願寺派
寺格 本山
御本尊 阿弥陀如来
創建年
大谷本願寺 元亨元年(1321年)
西本願寺 天正19年(1591年)
開山
大谷本願寺 覚如(本願寺第3世)
西本願寺 顕如(本願寺第11世)
中興年 文明3年(1471年)頃
中興 蓮如(本願寺第8世)
正式名 龍谷山 本願寺
別称 本派・お西さん
文化財
書院、飛雲閣、他(国宝)
絹本著色聖徳太子像、他(重要文化財)等
浄土真宗の宗派の宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)
宗祖親鸞の墓所である 「大谷廟堂」を発祥とする「本願寺」(「西本願寺」)を本山。
飛雲閣
国宝。境内南東隅の滴翠園内、滄浪池と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築です。
江戸時代の絵図には「御亭(チン)」または「御物見」として現れます。
3階建。各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観。
飛雲閣は原則非公開。
外観のみ期日を限って特別公開されます。
また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席が設けられます。
金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)と並んで「京の三閣」と呼ばれます。
境内
1.御影堂門、2.阿弥陀堂門、3.唐門、4.御影堂、5.阿弥陀堂、6.大銀杏(逆銀杏)、7.書院、8.庭園「百華園」、9.飛雲閣、10.鐘楼
等があります。
京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60
唐門
御影堂
阿弥陀堂
御影堂門
阿弥陀堂門と京都タワー
御影堂門横の銀杏
大銀杏(逆銀杏)
大銀杏と京都タワー
御影堂
御影堂から阿弥陀堂までの廊下
半鐘
阿弥陀堂へ
阿弥陀堂(修復中)
仏扉が閉じられています。
天の邪鬼
阿弥陀堂門
阿弥陀堂
阿弥陀堂前の銀杏
文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、大坂天満から現在の堀川六条に寺基を移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて北方に隠居させられていた教如(11代顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進され本願寺が正式に西(本願寺派)と東(大谷派)に分立する。このとき幕府内では当時の門主准如(顕如の三男)が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから准如に代わり教如を門主にするとの考えもあったが、真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった。とは言うものの、元来教如は石山合戦以来の自らの派を有しており、宗派内部はすでに分裂の状態にあった。
分立当初は准如の「本願寺」は「本願寺」・「六条門跡」・「本門」・「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の「本願寺」は「信淨院本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門・「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。
昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺を「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺は「西本願寺」と通称されるようになる。
住所 | 京都府京都市下京区門前町 |
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行き方 | JR・近鉄 京都駅より
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名称 | 本願寺(西本願寺) |
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読み方 | ほんがんじ(にしほんがんじ) |
参拝時間 | 5:30 - 17:00 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 075-371-5181 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.hongwanji.or.jp/ |
SNS |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
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山号 | 龍谷山 |
宗旨・宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
ご由緒 | 文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した。
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