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ずいれんじ|真宗大谷派慈雲山

瑞蓮寺
京都府 烏丸駅

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2024年03月01日(金) 21時45分21秒
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京都市中京区にあるお寺です。
宗旨宗派は真宗大谷派 ご本尊は阿弥陀如来(?)です。
門が閉じられていたので 中に入ってのお参りはできませんでした。
お寺の周りを見ていると看板が1つ。
茶屋四郎次郎屋敷跡と。
徳川家康を支えた豪商ではありませんか。
大河ドラマでも登場していたので 名前を憶えていました。

当寺のHPがあり ご住職が由緒について書かれていましたので 借稿します。

当寺の建立は、慶長元年(一五九六年)であり、初代住職は 浅井寿好(法名寿幸)である。寿好は戦国時代に近江の国(現在の滋賀県東浅井郡一帯を治めていた大名、浅井長政(一 五四五~一五七三)の一族浅井喜八良(一説に長政の子喜八郎)の子である。
 「姉川の合戦」にて浅井長政は織田信長の軍勢に壊滅状態にさせられたので、一族の菩提を弔いまた争いのない世の中 の実現を念願して右の者を琵琶湖経由で京へ逃がしたという事である。そして、縁のあった徳正寺(冨小路四条下ルに現 存)を頼り、出家して一宇を建立した。
 その初代住職寿幸は寛永十四年(一六三七年)に没している。初めて寺を建立した場所は、堀川通三条下ル東側 であり、堀川に面する地であった。 以来、三百四十年余り十五代に亘りこの地にて寺を継いできた。二代目寿源、三代 目寿傳以降、四代目圓爾から十四代目圓至までは代々「圓」の字を法名に冠した。
 中でも第十二代目の圓順(明治元年没)は本山にて四度講義をし、幾多の書物を著し、本山の嗣講(大谷派の学階で講 師に次ぐ位)となった。圓順の蔵書は膨大なものであり、後述の強制疎開のために大谷大学へそのほとんどを寄託した。
 現在「瑞蓮寺文庫」として七三〇部三千冊余りが人学図書館に蔵されている。 昭和十九年、十六代住職春榮(昭和六 十年没)の時、京都市の戦争疎開政策により、堀川三条下ルより移転し、一時錦小路新町西人ルの民家を寺とし、その後 縁あって昭和三十一年に現行の新町通蛸薬師下ル百足屋町に移転した。
第十八世住職 浅井 仁麿

瑞蓮寺(京都府)

建物は新しく いわゆる山門ではありません

瑞蓮寺(京都府)

全景

瑞蓮寺(京都府)

境内を覗き見しました すみません

瑞蓮寺(京都府)

茶屋四郎次郎屋敷跡 の説明

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瑞蓮寺の基本情報

住所

京都府京都市中京区百足屋町375

行き方

地下鉄東西線「烏丸」駅より徒歩15分
地下鉄烏丸線「四条」駅より徒歩10分
阪急京都線「烏丸」駅より徒歩10分

アクセスを詳しく見る
名称

瑞蓮寺

読み方

ずいれんじ

電話番号075-221-4616
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://www.zuirenji.net
SNS

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号

慈雲山

宗旨・宗派真宗大谷派
創建時代

1596年(慶長元年)

開山・開基

浅井壽幸

ご由緒

瑞蓮寺の建立は慶長元年(1596年)であり、開基である初代住職は浅井壽幸といいます。壽幸は戦国時代に近江の国(現在の滋賀県長浜市東浅井郡)一帯を治めていた大名浅井長政(1545~1573)の子浅井喜八郎(周防守)の子です。寺伝によると「姉川の戦い」にて浅井長政は織田・徳川の軍勢に壊滅状態にさせられたので、壽幸は助命と争いのない世の中の実現を念願して琵琶湖経由で京へ逃がれたという事です。そして縁のあった徳正寺(富小路四条下ルに現存)を頼り出家して一宇を建立しました。徳正寺には長政の妹が第五世祐誓の妻妙正として嫁いでいたのです。また瑞蓮寺には喜八郎の妻(法名正因)の両親である淨念と正乗の寿像が教如上人の御裏書で残っています。
初代住職壽幸は寛永十四年(1637年)に没しています。初めに寺を建立した場所は堀川通三条下ル東側であり堀川に接する地でありました。以来三百四十年余り十五代に亘りこの地にて寺を継いできました。二代壽源三代壽傳についで四代圓爾から十四代圓至までは代々「圓」の字を法名に冠したのです。
中でも第十二代の圓順(明治元年没)は本山にて四度講義し幾多の書物を著し、本山の嗣講(大谷派の学階で講師に次ぐ位)となりました。圓順の蔵書は膨大であり後述の強制疎開のために大谷大学へそのほとんどを寄託しました。現在「瑞蓮寺文庫」として七百三七百三十部三千冊余りが大学図書館に所蔵されています。昭和十九年、十六代住職春榮(昭和六十年没)の時、京都市の戦争疎開政策により、堀川三条下ルより移転し一時錦小路新町西人ルの民家を仮の寺とし、その後縁あって昭和三十一年に現在の新町通蛸薬師下ル百足屋町に移転しました。
この地には室町の商人松居庄七の屋敷がありましたが、松居家が名古屋へ移転する事になり、当寺がそのあとを譲り受け松居家の邸宅を庫裏としてそのまま現在も使用しています。昭和四十年には表蔵を他所へ移築してその跡地に本堂を建立しました。
さて松居庄七について少し述べねばならないでしょう。室町通錦小路(元明倫小学校南側)に「かねしょう」の屋号で半襟を商い大成功をおさめた松居庄七は、また熱心な真宗門徒でもあり本山である東本願寺より阿弥陀堂門の新築寄進の打診があった時これを快く引き受けたと伝えられています。明治四十四年(1911年)竣工の現在の門がそれです。ちなみに阿弥陀堂門建立の際、棟梁は本山側が予定していた者ではなく松居庄七は京都の宮大工、三上氏を指名しました。そのためかこの阿弥陀堂門は東本願寺の諸殿の中でも他の建物と少し趣を異にしており、重厚な中にも京都の職人の手による精緻な技が施され犯しがたい風格を漂わせています。
今、当寺が庫裏としている建物も大正七年(1918年)に同じ三上棟梁によって建てられており現在百四年目にさしかかっています。
尚、現在のこの土地は、江戸時代初期の豪商茶屋四郎次郎の邸宅跡といわれています。

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